>天界ワールドに戻る >天界通信に戻る

oyaji
親父のシナリオ

 作: 天界
(1988/12/12に書いた作品です)

世の中なんて、みんな似たり寄ったりの刺激の中で人生してるだけで、ドラマみたいな事は、テレビの向こうにしか無いような気がする。殺人事件なんて巻き込まれたことないし、UFOも見たことない。宝くじだって百円以上当たった事がない。普通の生活だけ。でも、もしかしたら気付いていないだけで、とてつもないドラマに参加しているのかもしれない…。

 この物語の主人公の名は「高橋 純」。某東京有名私立大に通う、普通の青年である。同じ学校に美樹という彼女がいて、親の金で教習所に通っている。人によっては普通以上に見えるかもしれないが、GNP世界一の、普通の日本人の普通の感覚で普通と言える青年である。



 そんな普通の青年 純は、いつものように学校の食堂で彼女を待っていた。食堂の中は、昼時間という事もあって、だいぶ混み合っていた。時計を見ると約束の時間を20分ほど過ぎていた。純はイライラしながら人ごみの中を見渡したが、美樹の姿は見当たらなかった。

「よお、純!何してんだ?免許取れたか?」

誰かが後ろから、雑音に近い大声で近付いてきた。小学校からの親友、正則であった。

「いや、まだ三段階だよ」

純は美樹のことを探しながら答えた。

「トロイ事やってんね」

正則はテトラパックのコーヒー牛乳をストローでチューチュー吸いながら言った。

「ところで、飯はもう食ったのか?」

「まだなんだ。でも、美樹と待ち合わせなんだよ。」

「また美樹かよ、よく飽きないね。しょうがないな。ところで、次の講義は出るんだろ?じゃあ、そん時会おう。いい話があるんだ。

正則は層言うと、コーヒー牛乳のパックを足でパンっと踏んで、派手に出て行った…。純は、相変わらず派手な正則の態度に苦笑いした。

昼休みが終わり、午後の授業が始まった。純は授業が始まって十分位経ってから、窓から忍び込んで正則の隣に座った。

「出席票は?」

「代わりに出しておいたよ。それより、どうしたんだよ、遅かったじゃないか。ホテルでも行ってきたのか?」

正則は、からかう様に言った。


「いや、美樹にすっぽかされちゃってさ。しょうがないから前のラーメン屋で慌てて食って来たんだよ。

「美樹がすっぽかしたの?珍しいね。それよりさ、いい話があるんだ。実は、隆明の奴が今夜、キャピキャピの女子大生3人連れてディスコ行くんだってさ。ジョイントしようぜ。」

「いいね、それ」

純はそれを聞いた途端、すっぽかされてダウンになった気持ちを取り戻した。

「じゃあ、夜迎えにいくからな」

 純は、授業が終わると、次に教習所へ向かった。一刻も早く免許が欲しかったので、授業には遅れても教習所には絶対遅れたくなかった。少し早くついてしまったので、自動販売機でコーヒーを買ってマンウォッチングを楽しむ事にした。

―ばかやろ、卒業検定なんか受かるんじゃないよ。また道が混むだろうが。

検定に受かって喜んでいる人達を見てつぶやいた。

―こら君、君、二度ある事は何度もある。お金の無駄だから諦めて自転車にしなさい。排気ガスいっぱい吸えてヘルシーだし。

路上試験に落ちてガッカリしている者にそっと聞こえないようにアドバイスした。更に面白い事はないかと見回すと、自分の方を見て微笑んでいる不気味な少女を発見した。

―マンウォッチングをしている者を見るマンウォッチャーか。

純は、目を下にやって知らないふりをした。そして、今度は受付に来ている人達の足元に視線を向けた。するとどうでしょう。潰れたスニーカーや、かかとにバンソウコウを貼っている無頓着な足の大群の中に、ひときわ光るパーツモデル顔負けの奇麗な足があるではないか。純は、天は二物を与えずという言葉を頭に思い浮かべながら、恐る恐る視線をパンアップした。するとどうでしょう。正にすべてが完璧であった。純はその美しさの魔力に負けて、大胆な行動に出た。

「あのう、よかったら一緒にお茶でも飲みませんか」

彼女の美しさは、純に史上最悪のナンパパターンを口走らせてしまうのにも十分な美しさだった。純は、純な少年のように直立不動の姿勢で返事を待った。

「いや!」

彼女はただ一言そう言って、気まずい雰囲気を平気で残し、去って行った。しかも、純の顔など見もしなかった。

「ふられた…」

純は、たった二文字の明確な意思表示に傷つき、ガクッと肩を落とした。そして、ふと受付の方に目を向けた。すると、係員がカウンターの中で彼女の教習カードを整理していた。

「小林 真奈美、か」

純は、その名前を彼女の美しさと共に頭の中にインプットした。

 杉並の自宅に帰ると、妹の久美子がいつものように電話を占領していた。純は、高校2年生の久美子と二人兄弟であった。

「長電話もいいけど、キャッチホンが入ったらちゃんと出ろよ」

「はい、はい」

久美子は思いっきり軽い返事をした。時計を見ると正則との待ち合わせまで、一時間半程あった。純はさっそく自分の部屋に行って、DISCOに行くための準備に取り掛かった。

「小林真奈美か、いい女だったな。今日来る子達もああだったらいいな…」

純は、そう言って鏡の中の自分にウィンクした。

しかし、純の期待は裏切られた。

「ヨーコでーす」

「ノリコでーす」

「リエでーす」

隆明が連れて来た女の子たちは、そこそこ可愛いものの、踊り場に入ってしまったらたちまち埋没して分らなくなってしまうような、それっぽいつまらない子達だった。

「俺は純。よろしくね。」

純は、その子たちに見合うそこそこの返事をした。

「何だよ、純。いくら美樹の事が気になるからって、もっと愛想よく出来ないのかよ。本命探しに来てんじゃないんだから。遊びだよ、遊び。それに、今日は隆明の部屋が使えるんだぜ。そこそこご機嫌とって、うまくやろうぜ。」

正則は、女の子達に聞こえないように耳打ちした。

「わかってるよ」

純はそれから、その場に流れる運命みたいなものに無抵抗に身を任せ、隆明のマンションで、リエという子と寝た。正則はノリコ。そして、隆明は酔ってヨーコにゲロをかけた。

 次の朝、純は、シンデレラじゃないけど、十二時を過ぎてすっかりカボチャになってしまったスッピン顔のリエを見て飛び起きた。気分は、二日酔いと、魔法が解けたようなリエの素顔で最悪であったが、予約があったのでガッツで教習所へ向かった。教習所に着くと、時間が余っていたので美樹に電話をしてみることにした。

トゥルルル…トゥルルル… 

しばらく鳴った後、留守番電話のメッセージがかかった。

「ちくしょー、いないや」

純は、メッセージを入れず、イライラしながら受話器を置いた。ところが、ふと後ろを振り返ると、昨日会った真奈美が電話を掛けようと並んで待っていた。

「あっ!真奈美ちゃん」

純は、思わず名前を口にしてしまった。

「どうして名前を?」

「それは… それは君と僕が結ばれる未来から来たから。」

人では気の利いたリアクションのつもりであったが、真奈美は顔色ひとつ変えずに言い返した。

「それじゃあ、そう呼ぶのは、その未来が来てからにしてくださいね。」

そしてハンカチを取り出し、汚そうに受話器を包んで取った。純は、再び自分の中に刻まれた不愉快な出来事に立腹しながらも、目の前の真奈美の美しいうなじに意識を吸い込まれていった。

「それじゃあ、そういうことで…」

気がつくと、一瞬タイムスリップをしたように、真奈美の電話が終わっていた。

「じゃあ、その未来が、今、始まるとして、一緒に食事でもどうですか?」

「いや、です」

またもや冷たく断られて終わったのでが、「です」がついた分、少しはましだと思った。

純は、ちっぽけな満足感を抱えて家に帰った。

 その日の晩、純はいつものように家族そろってご飯を食べていたが、真奈美の事が頭に浮かび、時々ぼうっとした。

「純、元気なさそうだな。彼女にでもふられたのか?」

純の父、哲夫が聞いた。哲夫は厳格というより、子供にはとても優しい父だった。

「いや、別に…。それより免許取れたら車が欲しいんだけど。」

純は、哲夫が心配してくれているタイミングを嗅ぎ取って聞いてみた。

「車だと、贅沢な」

哲夫はそう言って、慌てて純から視線をそらした。

「ええっ、贅沢かもしんないけど、みんな贅沢してるよ。それにかわいい息子の大事な青春の時期に行動範囲を狭まれたら、人間性も狭くなってしまうよ。」

「何言ってんだ。電車だって日本の端から端まで走ってるぞ。」

「そんな意地悪言わないでよ。お袋だって使えるし、久美子だっていずれ…」

「あたし、お兄ちゃんのお古なんて嫌だよ!」

「ねえ、全額払ってって言うんじゃないよ。ただ、今は学生でお金がないから、とりあえず就職するまで貸して欲しいんだよ。お願い、いいでしょ。」

純は可愛く手を合わせて頼んだ。

「お父さん、あたしも買物の時、車があると便利だわ。」

純の母、芳恵が言った。哲夫は、芳恵にはべた惚れなので、少し気持ちが揺らいだ。

「そうか、じゃあ考えておくか…」

腕を組みながらしぶしぶ言った。

「やった!親父、絶対約束だよ!俺もしっかり勉強するからね。」

「ちょっと、父さんの話も聞いてくれ。」

「ごちそーさん!」

純は、余計な話をして気が変わると困ると思ったので、席を立って部屋を飛び出した。

「しょうがない奴だな。」

哲夫はため息をつきながら言った。

哲夫は、中小企業の社長で、収入も十分、性格も温厚で家庭の仲は円満であった。そんな哲夫には、夢があった。それは、作家になる事であった。その為に、作品を書くプライバシールームも作った。哲夫は仕事から帰ると毎日この専用の書斎に閉じこもり、作品を書いた。しかし、その作品といったら面白くないものばかりで、それを証明するように、いろんな応募に落選していた。哲夫は、皆がそれを馬鹿にしている事を知っていたので、入選するまでは、誰にも作品を見せない事にしていた。みんなは、そんな哲夫を呆れて見ていた。

次の日、すっかり哲夫の承諾を得たと思った純は、浮かれて学校に向かった。正則に一刻も早く報告したかったのだ。ところが、学校に着いて食堂に向かう途中、美樹にばったり会ってしまった。

「美樹!」

「純!」

純に会った時の、美樹のバツの悪そうな顔といったら、誰にでもわかるものであった。

「どうしたんだよ、このあいだは?いつ電話をかけても家にいないし、電話もしてこなくなって…」

「あなただって、リエという子と浮気したくせに!」

美樹はいきなり、ヒステリックに言った。

「お前、なんでそれを…」

純は一瞬、言葉を失った。

「オイ、美樹!どうかしたのか?」

その時、「オイ、美樹」と軽々しく呼ぶ、純の特権を踏みにじる男の声がした。アメリカンフットボール部に所属する吉田であった。

吉田は、その自慢の体を盾に、正義の味方よろしく、このあいだまで美樹の正義の味方であった純の前に立ち塞がった。そして脳みその足りない分「喧嘩なら勝てる」という切り札を、美樹の前で早々と出したがっている様子だった。

「そういう事なのか…。心変わりをしたお前を責めるような男じゃないぜ、おれは…」

ヤバイと思った純は、そう言って暴力の恐怖の前に屈した自分を何とかごまかした。そしてさっさとその場を退散した。美樹は吉田の後ろに隠れて、黙ってそれを見送った。純は、グッドニュースで喜んでいたのに、一挙にバッドニュースが加わって、腹を立てた。そこで、おさまらない気持ちを早く理解者である正則に言うべく、急いで食堂へ向かった。

「正則、まいっちゃったよ。」

「よう、純。このあいだの子もお前にぞっこんらしいぜ。」

「馬鹿、それどころじゃないよ。美樹にばれてるんだよ。」

「本当かよ!昨日今日の事がどうして?」

「おれが聞きたいよ。」

「あっ、あの女たちと知り合いだったのかもよ。たとえば…『あたしDISCOで素敵な人に会ったのー。 えっ、誰? ペケペケ大学の純君。 ウッソー!あたしもその子知ってるー。 ウッソー、どうしてどうして知ってるわけー』なんて感じで、やべー、やべー。」

正則はひとり芝居をしながら、人の不幸を楽しむように心配した。

「ふざけんなよ、それにしたって何でそんなに早くばれなきゃいけない訳?」

「そうだな、うーむ。隆明だって関係ないから言うわけないし。ところで、どこでそれを聞いたんだよ?」

「さっき校門の近くで、美樹にばったり会ったんだよ。しかも男付きで…、その時にいきなりその事言われた訳よ。びっくりしのなんのって。まるで言葉の金蹴りよ イタイ イタイ 」

「へー、それでどんな男といたんだよ?」

「アメフトの吉田だよ、『美樹さんをください』なんて図体でかいくせして泣いて頼むから引き下がってやったよ。」

「3年の付き合いをか?お前、それ随分簡単すぎやしないか?」

「わかってるよ!」

正則は、微かに赤らんだ純の目に気付くと、それ以上聞くのをやめた。後でわかった事だが、なんと偶然か必然か、隆明はアメフト部に所属していたのだった。

純は、『真相を追究したからっていい事は決してないだろう』という、めんどくささからきた正則のアドバイスに従って、美樹を諦める事にした。しかし、真奈美という潜在的な新たな好奇心が、純の失恋を和らげていた事は、言うまでもない。

 そしてその日の夜…

「久美子、そこにある醤油取ってくれ!」

純は昼間の事でイライラしていたので、久美子に高圧的に言った。

「嫌よ、届くんだから自分で取ってよ!」

「何だよ、取ってくれたっていいじゃないか。まったく…ブスで可愛げないんじゃあ、男に好かれないよ。」

「へーん、残念でした。私、可愛いし、別にお兄ちゃんに好かれなくたって関係ないもん。」

確かに久美子は可愛かった。

「何言ってんだよ。おれに好かれないっていうのは、男に好かれないって事だよ。大体お前、男から電話かかって来た事ないんじゃないの?」

「えっ、お兄ちゃんだって美樹ちゃんしかいないじゃない…?あっ、そう言えば最近美樹ちゃん全然電話してこないわね。分かった!それでお兄ちゃんイライラしてんだ。嫌だー、ふられてやんのー。」

「うるせぇんだよ!」

純は図星をつかれて、思わず叫んだ。

「純!乱暴な言葉はおやめなさい。」

芳恵が睨みつけるように言った。

「嫌だ、男のヒステリー」

久美子は舌を出しながら、純を挑発した。

「何だ純、ふられたのか?だらしない。世の中なんて、半分女じゃないか。心配しなくてもすぐに新しい子に出会えるさ。それともお前は、そんなに魅力のない人間なのか?」

「あたしは選ばないわね。」

久美子は、タクアンをポリポリ食べながら挑発するように言った。

「久美子もいい加減にしなさい。ところで純、このあいだの車の話、半分出してあげてもいいぞ。その代わり、後の半分は何とか自分で稼いで返しなさい。分かったね。」

哲夫は純を元気付けるように言った。

「やった!絶対返すよ。親父、ありがとう。それからさっきから勝手な事ばかり言ってるけど、おれふられてないよ。ふられてあげたんだ。」

純はそう言って、二階の自分の部屋へ行った。

 数日後、純は卒業検定を受け、無事教習所を卒業した。そして、車も次の連休に届けられる事になった。しかし、その連休に車に乗るためには、最後の筆記試験に絶対に受かる必要があった。

 試験の当日、純は、迷った時の為の○×エンピツ(○×方式の名で、エンピツの側面に○×を描いて、迷った時に転がす)を持って試験場に向かった。試験場に着くと、他にも受けに来ている人達がいっぱいいた。(当り前か)しかし、いる人をぐるっと見回して驚いた。なんと、真奈美も試験を受けに来ていたからだ。純は、声を掛けたかったが、テスト前にひどい事を言われて心を乱されたくなかったので、軽く会釈だけをした。それから、テストを無事に終え、純はジュースを飲もうと自動販売機のコーナーへ行った。ところが、そこにも真奈美がいた。しかも、男と楽しそうに話していた。面白くないのでジュースを買わずに帰る事にした。

外に出て、献血もしないでバスに乗り込むと、昨日遅くまで勉強したせいか、大きなイビキをかいて寝込んでしまった。そして、終点に着いても起きなかった。

「ちょっと、貴方、起きなさいよ。もう駅に着いたのよ。」

親切な人が純を起こした。

「ええ、えっ、ヤバイ」

純は慌てて飛び起きたが、寝ぼけて状況を把握出来なかった。

「あっ、本当だ。どうもすみません。」

やっと正気を取り戻すと、その人にお礼を言った。しかし、驚いた事に、そこにいたのは真奈美であった。

「真奈美!?俺まだ寝ボケてんのかな」

純は信じられない様子で目をこすった。真奈美は、純が起きたことを確認すると、何も言わず涼しい顔をしてバスを降りた。純は、慌ててその後を追った。バスを降りると、真奈美は既に駅の階段を上り始めていた。純は急いで彼女を追った。やっと切符の自動販売機の前で追い付いたかと思ったら、今度は出てきた切符を持ってさっさと行ってしまった。純はまるで、砂漠の蜃気楼の様に、近づくと行ってしまう真奈美にイライラした。そしてついにホームのところで追い付くと、溜まった気持ちを吐き出すようにして言った。

「何でおれの目の前に現れるんだ!嫌いなら嫌いでいい。ただ、おれの目の前に現れて心を乱すのはやめてくれ!」

「また、自意識の強い人ね。私、別に貴方の目の前に現れようとしてないし、心を乱した覚えもないわ。」

真奈美は頭を十五度傾けて、小悪魔的な目で見上げながら言った。

「そっ、そうだね、僕が悪かった。ちょっと変なんだ。そう、特に君を見ると取り乱しちゃうんだ。女に対して本当はこんな不器用じゃないんだけど、君の前だとまるで初恋の時のようになってしまうんだ。こんなダサいアプローチじゃ好かれる訳ないよね…」

純は、いじけた態度でガックリ肩を落とした。

「好きよ」

諦めてトコトコ歩き出した純に真奈美が言った。

「えっ!今なんて言った?」

「貴方のこと好きよ。」

じらすように、その言葉の語尾をかき消して、電車がホームに入ってきた。真奈美は、純の手を引いてその電車に乗り込んだ。

「何なんだよ、それ。」

純は、期待していた言葉があまりにも無造作に出てきたので、信じられない気持ちと、馬鹿にされたような気持ちが混ざって、ふてくされた。

「とにかく貴方の予言してた、真奈美と呼んでいい日が何故か来たのよ。この後の予言もあなた次第だから、どうするか考えるのね。」

真奈美は、小さな紙に電話番号を書いて渡すと、次の駅で降りた。純は、何が彼女をそうさせたのか、よく分らなかったが、本能的にそれを聞いてはいけない気がした。

何となく、それを聞くと目の前の彼女が、解かれた魔法のように消えてしまう気がしたからだった。ドアが締まり、電車が走り出した。不安な純は、真奈美を可能な限り目で追ったが、間もなく階段の奥へと消えていった。

目の前を『西荻窪駅』の看板が通り過ぎた。純はつぶやいた。

「俺の降りる駅だった…」

純は家に帰って、早速真奈美に電話をしてみた。そして、新しい車が来たらドライブをする約束をした。

ところがその夜…。

「純、今度の連休に皆で旅行に行こうと思うんだが、どうだ?」

哲夫が食事の時に切り出した。

「ええっ、駄目だよ。車が来て最初の連休だろ、忙しいよ。」

「香港旅行だぞ?」

「わあ!行きたーい!」

久美子が目を輝かせた。

「俺は、今回いいよ。」

「そんなに車の方が大事なのかね。純が来ないんじゃあ仕方ないなぁ。今回は見送るか。」

「そんなの嫌だ!お兄ちゃん馬鹿じゃないの?車なんて何時だって乗れるじゃないの。お父さん、お兄ちゃん残ってもいいって言ってるんだから、行こうよ。一回行くと言っておいて取り消すのはずるいよ。」

「久美子が足をバタバタさせて、騒いだ。

「親父、久美子もうるさいしさ、本当に行っていいよ。」

純が言った。

「そうか、分かった。じゃあ、今回は純に留守番を頼むか。大事な用があるみたいだからな。」

哲夫はそう言うと、席を立って書斎の方へ消えていった。

「怒ったのかな?」

純は、少し心配になって久美子に聞いた。

「当り前でしょ。ただでさえ言う事聞かないのに、車を買ってあげてもその返事じゃあ、がっかりもするわよ。」

久美子が、キッと睨んで言った。

「そんな事ないわよ。お父さんね、また応募するので、書斎にこもって小説書いてるのよ。それにね、車が来て乗りたい純の気持ち、ちゃんと理解しているわ。」

「そうかなあ、でも親父も懲りないね。また書いてんの?」

「そうよ。なんかいいアイディエ教えてあげたら?」

「そうだね。親父、はっきり言ってアイディア乏しいもんな。ほら、昔何回か見せてもらったじゃない、あれも、殆どどっかで聞いたようねストーリーばっかりだったもん。」

「お父さんの小説の事に関してだけは、お兄ちゃんに賛成するわ。」

久美子もうんざりといった顔で言った。

「そういう事を言うから、お父さんもいじけて『もう、入選するまでは絶対見せない』なんて言うのよ。二人とも、もっとお父さんの才能を信じてあげなさいよ。あなた達が思っているよりずっと素晴らしい人なのよ。本当よ。まだ若いから言っても分らないでしょうけど、大人になれば必ず分かるわ。」

芳恵は、ちょっとむきになって言った。

「そんなものは見せてもらわない方が助かるね。それに何だよ、大人、大人って、いつもそれじゃん。大人って言うだけどそんなに偉い訳?大人なんて言ったって、大人になるまでは絶対大人になれないんだから、それを盾に子供に威張るんじゃあ、絶対勝ち目のない勝負を子供にしろと言ってるようなものじゃないか。そんな偉い大人に、ただ時間が経つという当たり前の事だけで、僕らだって必ずいつかはなれるんだから特別に偉いと言うこともないじゃないか。それに、俺だってもう子供じゃないんだぜ。」

純も、むきになって反論した。

「純、そうじゃないのよ。あなたも社会に出て人の親になれば分かるわ。あっ、こういう言い方がいけないのね。そうね、大人だから偉いって言ったら良くないかもね。ごめんなさい。」

「お母さんをいじめないでよ!」

大好きな芳恵をかばって、久美子が叫んだ。

「分かったよ、おれも悪かったよ。でも、お袋さ、親って子供が出会う最初の権力なんだと思う。だからさ、その最初の権力を打ち破れなければさ、一生、権力に屈してしまうような人間になっちゃう気がするんだ。だからさ、親の押し付けとか、ちょっとした言葉に過敏になっちゃうんだよ。久美子の場合はどうだか知らないけど、俺ってそうだと思う。だから、ごめんね。」

純は、そう言って席を立った。

「権力だって。かっこつけちゃって馬鹿みたい。女にはそんなもの無いわよね。」

久美子は、芳恵を慰めるつもりで言った。

「そうね、でも無関係じゃないわよ。純も少し大人になったわね。」

芳恵はそう言うと、皿を台所に引き上げ始めた。久美子は、何となく純を褒めたように聞こえた芳恵の言葉に、少し戸惑いを感じた。

 数日後、ついに車が納車される日が来た。

ピンポーン。

インターホーンが鳴ると、待ち構えたように久美子が出た。

「高橋様、お車をお届に参りました。」

「ご苦労様です。パパ!ママ!車が来たわよ!」

純も急いで表に出た。

「高橋様ですよね?ええ、少し車の説明をさせて頂きます。」

「いいよ、親父に話ししといて。」

純は、そう言ってセールスマンを押しのけると、車に乗り込んだ。

「ほう、思ったよりスポーティーな車だな。」

そう言いながら、哲夫が家からのそのそ出てきた。

「親父、俺、ちょっと正則の所へ見せに行ってくるよ。」

「まだ説明も聞かないで運転できるの?」

芳恵が心配そうに言った。

「大丈夫だよ、同じ車に乗ってる友達ので練習したもん。」

「ずるい、私も行く。」

久美子はそう言って、助手席に乗り込んだ。

「馬鹿、お前は来なくていいよ。」

純が追い払うように言った。

「ねえ、パパ、いいでしょ?ほら、お兄ちゃんも、あたしがいる方がはめはずさないと思うの。」

「あなた…」

芳恵が心配そうに哲夫の方を見た。

「しょうがない奴だな。よし、一時間だけ行ってきていいぞ。その代わり、絶対事故を起こすんじゃないぞ。」

「やったあ!お兄ちゃん、パパの気の変わらないうちに早く行こう。」

そう言って走り出すと、哲夫たちはそれを心配そうに見送った。正則の家は15分程離れたところにあったが、不思議な事に、正則が表に立って待っていた。

「どうして、表にいるんだよ?」

純が、車の窓を開けて聞いた。

「どうしたもないよ。お前ん所のお袋が電話かけてきてさ、『うちの馬鹿息子が行くからよろしく』って言ったんだよ。」

「そうか、恥ずかしい事するよな。」

純は、機嫌悪そうに言った。

「どころで、その子誰?もうちゃっかりナンパしちゃったとか。」

「馬鹿言え!俺の妹だよ。」

「うっそー!何でお前にこんな可愛い妹がいるんだよ。」

「わ、嬉しい。あたし、久美子。よろしくね!」

久美子は嬉しそうに言った。

「本当かよ正則!女日照りでおかしくなっちまったんじゃないの?まあ、いいから乗れよ!このガキが一緒だから、一時間しかだめなんだ。」

やはり、久美子を連れてきたのは間違いだったと純は思った。何故なら、正則は、女子高生殺しのマサと異名をとる程、高校生にも人気があったからだ。そして心配したとおり、久美子は正則に一目ぼれ。正則は正則で、実の兄の前で、遠慮なく久美子を口説くのだった。

「純、普通の道じゃつまんないから、高速道路乗りに行こうぜ。」

「駄目だよ、一時間のタイムリミットだと言っただろ。」

純は、まるで運転手のように扱う正則に言った。

「電話でお前のお袋が、俺に全任するって言ったんだから大丈夫だよ。それに、こういう細々した道より高速の方が、飛び出しもなくてかえって安全なんだぞ。」

「お兄ちゃん、そうしようよ。」

久美子も一緒になってねだった。

「本当かよ、久美子?怒られても知らないぞ。」

「大丈夫、大丈夫。」

純は、ドライブを楽しむつもりだったのに、まるで正則と久美子のデートの運転手みたいな形になってしまったので、面白くなかった。だから、せめて高速に乗ってすっきりしたいと内心思っていた。

「高速の安定性も最高だね。ところで、この車、オートクルージングのスイッチはどうやるんだ?」

純が正則に聞いても、正則は久美子と話すのに夢中で、返事をしなかった。

「正則、聞いてんのかよ!」

「あ、聞いてるよ。ところでさ、今度お前に可愛い子紹介してやるからさ、4人でどっか遊びに行こうぜ。」

「正則、頼むから久美子だけはやめてくれよ。お前は、こいつがどんな奴か知らないんだよ。」

「お兄様、それは随分なお言葉ですわ。」

「久美子、お前も単純だよ。正則がいい男なのは分かるけど、何もそう簡単に惚れなくたっていいじゃないか。それにこいつ、すごい足臭いんだぞ。」

「純、そういう事言うわけ?お前、信じないかもしれないけど、本気で惚れそうなんだよ。いい加減な気持ちで親友の妹を口説くと思うか?」

正則はそう言いながら、久美子の手を握った。

「馬鹿!真剣なんて冗談じゃないぜ。お前のとんでもない過去を知ってて、許す兄がどこにいるっていうんだよ。」

「ここ。」

正則は、平然と純を指差した。

「愛は障害がある方が燃えるのよ、正則さん。」

大胆な交際の申し入れにすっかり参ってしまった久美子が、潤んだ目と燃えるような真っ赤な顔をして言った。

「久美子、どうしたんだその顔?」

正則は、真っ赤になった久美子の顔を見て驚いた。

「やばい、パトカーだ!」

純は、皆の顔を赤く照らし出す光の正体を、バックミラーで確認した。可哀想に、妹と正則の事ですっかり頭に来ていた純は、初ドライブで22キロオーバーの切符をもらう事になってしまった。

「馬鹿者!」

久美子から一部始終を聞いた哲夫が、カンカンになって怒った。

「初日にスピード違反でつかまるなんてどういう事だ!運転にも慣れてないんだから、一時間だけと言っただろう!どうして高速なんかに乗るんだ!事故して、みんなに怪我でもさせていたら、どうするつもりだったんだ!これじゃあ、旅行の間も信用して運転させられない。罰として、鍵はしばらく預かる!」

哲夫はそう言って、純から鍵を取り上げた。

「ええ、それだけは勘弁してよ。車いるんだよ。」

「駄目だ!」

子供に優しい哲夫も、この時ばかりは、頑として譲らなかった。

-参ったなあ。デートどうしよう…-

純はそう思いながら、がっくりと肩を落とした。それを尻目に哲夫たちは、明日からの旅行の準備に入った。憎たらしい久美子も、純の事なんか関係無いといった感じでj、楽しそうに持ち物のチェックをしていた。

「全く、あいつのせいでこうなったのに、いい気なもんだ。ああ、車どうにかしなくちゃな。今からじゃ、レンタカーも駄目だし、どうしよう。そうだ、確か真也のの奴が同じ車に乗ってたな。」

純は、学校の友達で同じ車に乗っている真也のところへ、早速電話してみる事にした。

「馬鹿言えよ!この大事な連休に、車貸す奴なんかいるかよ。それにお前みたいな初心者なんか危なっかしくって…」

「この間、試験の時に答案見せてあげただろ。」

「ああ、間違いだらけのな。駄目だよ!」

真也はそう言って電話を切った。その後も、心当たりを当たったが、やはり、連休に車を貸すような奴はいなかった。気がつくと、もう真夜中で皆も準備を終えて寝ていた。

「ああ、もう一時だぜ。俺がこんな苦労してるというのに、皆寝ちゃっていい気なもんだ。」

純は、ふてくされて電話の所に座り込んだ。

「よし、こうなったら鍵を奪回するしかないな。」

とうとう純は、強硬手段に出る事にした。そこで、皆が本当に寝ているのかを確かめて、タンスなどのめぼしいところから探し始めた。しかし、旅行荷物、寝室、へそくりの場所、どこを探しても鍵は見つからなかった。

「ちくしょー、一体どこに隠したんだろ?」

純は、デートに車を使いたかったので、必死に探しまわった。しかしいくら探しても見つからなかった。純は、ついに最後のひと部屋に辿り着いた。それは、哲夫の書斎だった。哲夫の書斎は、家族も立入り厳禁の特別な部屋だった。それは一流の作家を目指して戦う、神聖な場所だったからだ。どうしても鍵が欲しかった純は、ついに最後のタブーを犯す事にした。

「ついにここまで来てしまったか。親父、許してくれよな。」

純は、ドアのノブに手を掛けたが、しっかりと鍵がかかっていた。

「ちぇっ、しょうがないな。でも鍵がかかってるなんて、この中にあると言ってるようなもんだ。そうだ、裏の方から入れるかもしれない。」

書斎は二階にあったので、裏から入るといってもかなり危険なことだった。純はまず、書斎の隣にある洗面所の窓から長い棒を出して、書斎の窓が開くかどうか確かめた。運がいい事に、窓には鍵がかかっていなかった。

「やったあ!開いてる。」

純は洗面所の鍵をかけ、自分が入っているように見せかけた。そして、洗面所の窓から這い出て、一階と二階の間にある、屋根の僅かな出っ張りに立った。

「こんな所を見られたら、泥棒だと思われるだろうな。」

純は、忍者のように身を貼りつかせ、ゆっくりと書斎の窓の方へ這って行った。その時、

ガタンッ!

と音がした。びっくりして前を見た。すると、犯人の野良猫がいとも簡単に屋根の上を飛び跳ねて、闇に消えて行った。

「びっくりさせやがって。しかし、猫に比べると、人間って不器用だな。」

純は、そう言いながら、やっとの思いで書斎の窓に手をかけた。

―考えてみれば、生まれて初めて見るんだな。

心臓が高鳴った。思い切って中を見ると、目の前に大きな机がひとつあり、その上に書きかけの原稿が散らばっていた。周りの壁には本がぎっしり詰まった棚があった。純は、窓をすっと開け、照らし出された部屋に妙な重圧感を感じて、思わず一歩身を引いた。そこらじゅうにある本が、純という侵入者を睨みつけているような迫力があったからだ。

「何だよ、この部屋。」

純は、長年この家にいるのに、こんな身近に全く知らない世界があった事がとても不思議に思えた。そして、ここでひたすらものを書いている哲夫の姿をふと想像して思った。

「親父はいつもここで、書いていたのか。考えてみれば、全然関心なかったものな。もしかしたら俺は、一番近くにいる親父の本当の姿を全然知らないのかもしれない。」

純は、椅子に座り、哲夫の書く真似をしてみた。

「いつもこうやって書いてんだろうな。こういう姿もかっこいいかもな。どれどれ、どんなものを書いているのかな。」

そう言って目の前の作品を読み始めた。

「なになに、『リトルラブ イン 香港』。わあ、ださい題名。香港旅行が決まると早速それをネタにして、単純だよな。こっちは何だ?『戦争の傷跡』。暗そうだな。これは、『久美子の夏』だって。子供を題材にして、親ばかだねー。」

純は、鍵を探すのも忘れて夢中になった。そして、家族を題材にしたものが結構多い事に、驚くと同時に、哲夫の家族思いな一面に心打たれるものを感じた。

「こんな、庶民的な家族の話を人が読んで面白い訳ないよな。これじゃあ、落選するよ。よし、俺がちょっと面白く書き換えてやろう。

―しかし、世の中生きていればいい事はあるもので、宝くじに当たるは、作家として成功して父の悲願を達成するわで、その後末永く幸せに暮らしたそうだ。-

これでよし。やっぱりこういうものは、ハッピーエンドに限るよね。」

純は、そう言ってペンを置き、次に引き出しを開けてみた。すると驚いた事に、様々な筆記用具の間に車の鍵が埋もれていた。

「やったあ!あったよ。そうだよ。これを探しに来たんだよ。」

純は、鍵さえ見つかれば、もう用は無かった。そこで読んだものをばれないように元に戻し、そーっと窓から出て、自分の部屋に戻った。

 次の朝、純は皆が旅行に出る時になっても起きなかった。皆は鍵の事で怒って起きてこないのだと思っていたが、本当は昨日の事ですっかり疲れていたのだ。純は、午後になってようやく目を覚まし、すぐに枕元にある鍵を確かめた。

「あった!これでデートはばっちりだ。」

大切な鍵を机の上に置くと、下の部屋に降りて行った。

「今日はデートでいいもの食べるから、カップラーメンにしておくか。」

プルルルルッ

台所に入ってヤカンを火にかけたとき、電話が鳴った。

「もしもし。」

「あの、小林と申しますけど、純さんはいらっしゃいますか。」

真奈美からの電話であった。

「いますよ、ここに。」

「ああ、よかった。真奈美です。」

「分かってるよ。どうしたの、まさか都合が悪くなったとか?」

「えっ?そうじゃないわ。ただ、今日の約束の確認がしたかっただけ。」

「五時に吉祥寺のイタトマ、大丈夫?」

「分かったわ、じゃあその時に…」

「何だよ、もう切ってしまうのかよ。」

「話は会ってからの楽しみにしましょう。それに女の人は色々準備する事があるのよ。」

「わかった、それじゃあ、後で。」

純は、電話を切って思わず微笑んだ。

「色々準備する事がある。この時間から色々準備するという事は、それだけ入念な準備をするという事。それだけ入念な準備をするという事は、それを予想しているという事。そして、それを予想しながら入念な準備をするという事は、OKだという事じゃないか。やったあ、これは俺も入念な準備をいないといけないな。」

純はそう言って、急いで風呂場へ走った。台所では、お湯の沸いたヤカンがピーピー鳴っていた。

 

 体の入念な準備を終えた純は、車の入念な準備をしにガソリンスタンドへ行った。

(ちなみにヤカンの火は止めた)

「ガソリン満タン、洗車ワックス、タイヤの空気圧。全部お願いね!」

純はそう言うと、待合室に入り、室内香水、ティッシュをはじめ、ガム等の小物を買い揃えた。そして、あらかじめ手帳に書いたデートコースを復習し始めた。そうこうしているうちに、車がピカピカに仕上がった。

「完璧だ!」

純は、気張りすぎとも思える完璧の状態で車に乗り込み、待ち合わせ場所に向かった。

「まだちょっと早いな。そうだ!合鍵を作っておこう。」

純は、こういう事がまた起こるとも限らないので、合鍵を作る事にした。そこで、デパートの中にある合鍵屋で鍵を作ってから、待ち合わせ場所へ向かった。喫茶店に着くと、一際目立った美しさで、真奈美が待っていた。

「お待たせ。」

緊張しているせいか、真奈美の前に座る時の態度がオカマっぽくなよっとした。

「もう、オーダーしたの?」

「まだ。」

「じゃあ、もう出ちゃおうか。」

「駄目よ。ほら、後ろ。」

後ろを振り向くと、美しい女性とのデートに嫉妬するウェイターが怖い顔をして立っていた。

「ああ、あの、僕ね、アイスコーヒー。君は?」

「私はもう頼んだの。ねっ。」

「アイスティーでしたね。」

ウェイターは真奈美にニコッと笑って引き揚げて行った。

「今日はね、横浜の方へ、ばっちり美味しいもの食べに行くから。」

「わっ!楽しみだわ。」

「ところでさ」

「なに?」

「最高可愛いよ。」

「嬉しい、さっき、あのウェイターにも言われたの。」

それを聞いた純は、ウェイターの方を睨んだ。

「出よう!」

純は、喫茶店を出ると、横浜の方へ車を飛ばした。目的地は、海の見える可愛いレストランであった。中に入ると、海が見える窓際に、ロウソクの立てられた予約席があった。真奈美は、純の可愛い熱意に愛らしいものを感じた。純の考えに考えたデートコースは、予想以上に真奈美のハートを掴んでいった。そして真奈美もその気持ちを示すように、純の愛のメッセージに快く応えた。純が夢のようなデートを終え、家に着いたには、12時近くでした。

「やった!やった!!やった!!!」

プルルルルッ

純が思い出しながらはしゃいでいると、電話が鳴った。

「もしもし。」

「もしもし、純?お母さんよ。ちゃんとしてる?さっきも電話したのよ。」

「実は今日、友達の車借りて乗ってたんだ。でも親父には内緒だよ。」

「そうだったの。悪い子ね。」

「どう?そっち楽しんでる?」

「楽しんでるわよ。お父さんも、『近いうちに純を連れてもう一回来よう。』なんて言ってたわ。それに、『怒りすぎたかな』、なんて気にしてたわよ。」

「へえ、久美子はどうしてんの?」

「デートよ。」

「誰と?」

「それが、貴方も知ってると思うけど、お父さんの会社の取引先がこちらにあるでしょう。だからそこの方に今日案内してもらったのよ。そしたらちょうど同じ年ぐらいの坊ちゃんがいたから、若い人同士の方がいいと思って、別行動にしたのよ。だからその子が久美子をいろいろな所へ案内してるのよ。」

「へえー、良かったね。ねえ、親父にさ、何とか鍵を返してくれるように説得しておいて。」

「分かったわ。お土産買っていくからね。大人しくしていなさいよ。」

「分かってるよ。それじゃあね。ああ、それから、リーボック買うんだったら、サイズは26センチだからね。」

「分かったわ。」

―嘘ついてごめんよ。

純は、そう心の中で呟いて電話を切った。

「香港も面白そうだったな…。よし、その内絶対真奈美と一緒に行くぞ!そうだ、鍵を元の所に戻さなきゃ。」

純はそう言うと、再び哲夫の書斎に入った。

「鍵は確か、この引き出しの中だったな。よし、これで完璧だ!」

純は、鍵を元に戻すとホッとして椅子にどんと座った。そして改めて書斎の中をゆっくりと見回した。

「それにしても何か不思議な感じのする部屋だな。普段感じないのに、ここに来ると親父の威厳みたいなものを感じる。なんか、ここにこう座って世の中の全てをここから見透かしているような、そんな迫力を感じるよ。」

純はそう言いながら、しばらくその雰囲気に浸った。しかし、その時ふと久美子の話を思い出した。

「香港で久美子がデート?どっかで聞いたような話だな。デジャヴかな?」

じゅんはしばらく考え込んだ。そして、ぼおっとして窓の外を眺めると、前に見たあの器用な猫が隣の塀の上を歩いているのを発見した。純は脅かしてやろうと思って窓を開けた。ところがその時、突風が吹いて机の上の書類を飛ばした。純は慌てて窓を閉めた。外を見ると、猫はもういなかった。

「腹の立つ猫だぜ。」

純は、ぶつぶつ言いながら部屋に散らばった書類を拾い始めた。ところが、ひとつの作品に目をやった時に驚いた。

「ラブ イン ホンコン?これだ!」

なんと前に聞いた事があると思った話とは、この書斎で読んだものだったのだ。

「こんな偶然ってあるものなんだな。」

純はその作品を改めて読んで驚いた。というのも、内容が、家族旅行に出掛けた娘が、旅先で父の取引先の息子とラブロマンスを演じるというものだったからだ。

「これは一体どういう事なんだろう…?まあ、旅先で取引先の家族と会う予定にはなっていたから、たまたまそれを題材にして書いたのかも知れないな。そして、その家族に、似た年頃の子供がいれば考え付くものではあるな。それにしても実の娘を題材によくこんなもの書けるな。なになに、橋の下でキッスだって、よくやるよ。」

純はそう言いながら物語の続きを読み始めた。そして段々夢中になって、ひとつ読み終えると、自然と次のものに目をやった。

しかし、そうこう読んでいる内にまた不思議な作品に出会うのであった。それは、美樹に男が出来て別れてしまう事、ディスコでの浮気がばれる事、試験場で真奈美と出会う事など、純の最近の事が克明に書かれているものであった。純は青ざめてしまった。

「一体何でこれを知っているんだろう?分らない。日記を読んだのか?そんな筈ない、俺日記つけてないものな。電話を聞いていたのかな?でもこんなに克明に分かる筈がない。俺が寝言で言ったのかな?それも無いよな。正則が親に喋って、そこから聞いたのかな?」

純は、哲夫がどうして全部知っているのか分らなかった。純は、その謎を解くために哲夫の書いた作品を全部調べる事にした。すると、驚いた事に自分の初体験を始め、久美子の初恋等、どうして知ったのか分らないものが次々と出てきた。

「こんな馬鹿な!」

驚いた純は、部屋の中を徹底的に調べ始めた。すると、棚の奥から数冊の不思議なノートを見つけた。

「何だろう…?」

中を開いて見てみると、落書き帳のようなものに、いろんな話の筋書きを考えている跡があった。

「これは、今から書こうと考えているものかな?」

純は考え込んだ。

―親父は一体どうやってここにあるものを書いたんだろう?誰かに聞くにしても、俺や久美子が喋らないものを知る筈がない。それなら、偶然の一致か?ちょっと待てよ、久美子の香港の話は、これを書く時点では未来の話だ。という事は、今読んでいるから過去の知りえない事を書いているように見えるけど、もしかしたら、起こる前に書いた予言書見たいな物なのかもしれない。すると親父は預言者か?そんな筈ないな。しかし、それならなぜ実際に起きてしまうんだろう?親父は超能力者か?馬鹿な…。そうだ!このノートに書いてある事がこれから書く事の筋書きなら、それはこれから起こる事でもあるわけだ。これが起これば、親父は、預言者だ。しかし、俺がここに書いてある事と違う事をして、それを後から親父が書くとすれば、起こった事を誰かに聞いている事だ。そして、ここに書かれている事に、逆らおうとしても、逆らえず起きてしまうならば、親父は超能力者という事だ。よし!このノートをコピーして気付かれないように戻しておこう。

純は早速、深夜のコンビニエンスストアーへノートをコピーしに行った。かなりの枚数があり、試験の前でもないのに必死にコピーする姿を店員がちょっと不思議そうに見ていた。純は単調なコピー作業を行いながら、頭の中を整理しようとしていたが、考えれば考える程、謎は深まるばかりであった。

―でも、仮にこんな不思議な事があるにしろ、一体何のために…

「お客さん、もういいんですか?」

機械が止まってもぼおっと考え込んでいる純に、店員が思わず声をかえた。

「あっ、すみません。これで全部です。」

純は、溢れんばかりのコピーを手に急いで家に帰った。そして、考え過ぎてくたくただったので、そのまま自分のベッドに倒れこんでしまった。

プルルルルッ

純は電話のベルで目を覚ますと、眠け目で下へ行った。

「もしもし、小林と申しますが…」

真奈美からであった。

「昨日はどうもありがとう。」

「嫌、俺の方こそありがとう。本当に楽しかった。あんまり楽しかったんで、朝起きて、夢だったんじゃないかと思ったよ。」

「何言ってるのよ。でもね、実はこれも夢の続きなのよ。本当は、貴方がまだ夢から目が覚めてないのよ、分かる?ウフフ…」

真奈美は純を惑わすように言った。

「まあ、どっちにしろ悪い夢じゃなさそうだ。ところで今日は何してるの?」

「秘密。」

「何だよそれ。」

「貴方は?」

「実は家の奴ら、皆旅行に出掛けててさ、一人なんだよ。だから、良かったら晩飯でも一緒にどうかなと思ったんだ。」

「いいわよ。」

「ほんと!?じゃあ、七時頃迎えに行くよ。」

「分かったわ。」

純は、電話を切ってから、ふと考え込んだ。昨日の事があんまり不可解なので、夢か現実か思い出せないのだ。そこで、急いで自分の部屋に戻って見た。するとそれが現実であることを証明するように、ノートとコピーがベッドの下にあった。

「ちくしょー、真奈美の言うように、この部分だけ夢だったらいいのにな。」

純は、ようやく頭がはっきりして昨日の事を全部思い出した。そして、預言の正体を突きとめる為に、ばれないようにノートを元の場所に戻して置くことにした。

「これでよし。そうだ、親父がなんであんなに色々知っているのか、正則に探りの電話を入れてみよう…」

純は、何だかんだ一番よく知っているのは正則なので、哲夫の謎について何か関係あるかもしれないと思った。そこで、真奈美との報告を兼ねて色々聞き出す事にした。しかし、正則に怪しいところは見られなかった。

―やっぱり正則は何も関係なさそうだ。

純は、部屋に戻ってノートのコピーに何度も何度も目を通した。そしてこれを、一体誰に相談すべきかを迷った。しかし、多分誰も信じてくれないだろうとし、情報の出先が分らないうちに、下手に動くと哲夫に全てがばれると思ったので、止めておいた。

その夜、真奈美と食事を終えた純は、下北沢にあるお気に入りのカフェバー「ポチ」に行く事にした。ポチは仲間とよく行く場所で、マスターとも顔見知りだった。純がそこに行きたがったのには訳があった。それは、美樹との一件が皆に知られ渡っていると思ったので、名誉挽回の為にどうしても真奈美を連れて行きたかったのだ。

「おっ、今日はずいぶん素敵なトキオジェンヌを連れてきたね。」

マスターは、その道独特の人のいい笑顔で言った。純は、まずまずの反応に満足して、カウンターに座った。

「さっき、正則君から電話があって、こっちに来るような事を言ってたよ。」

マスターがメニューを差し出しながら言った。

「あら、正則君って貴方の親友だっていう子でしょ?」

真奈美が興味ありそうに言った。

「そうだよ、たまに縁切りたくなるけどね。」

―正則の奴、偶然来るのかな?それともここに来るのを知っていたのかな?

哲夫の不思議なシナリオのおかげで、そんな考えが頭をよぎった。

「噂をすれば、ほら…」

マスターが指を差した。

「おお、いたいた。ここに来ると思ったぜ。」

正則は、まるでさらって来たかのように女の子の首に手を回し、店の中に連れ込んだ。

「正則、この子が真奈美。」

純が言った。

「小林 真奈美です。」

真奈美はそう言ってペコンとお辞儀をした。

「純、お前いつもフカシばっかりだけど、こいつの可愛さだけは、お前の言葉でも足りなかったようだな。」

真奈美を見てすっかり興奮する正則に、連れの女の子が怒って肘でつついた。

「あ、ところでこいつ…」

「久美子です。」

連れの子が言った。

「そうそう、お前の妹と同じ名前なんだよ。縁あるのかな、俺…」

正則がからかうように言った。

「純です、よろしくね。そっちのテーブルに移ろうか。」

純はそう言って、店の奥に行こうとした。

「あっ!」

マスターが驚いた顔で入口の方を見た。何と、吉田と美樹が入って来たのだった。

「役者が揃っちまったな。」

正則が、半分何かを期待するように言った。美樹は、純達に気付くと、吉田の袖を引っ張って店を出ようとした。」

「よう、美樹!純にはもう新しい彼女が出来たんだ。だからもう、こそこそすることないんだぜ。」

正則がそう言うと、吉田がビクンと反応して美樹を店内に引き込んだ。

「俺はこそこそなんてしてないぜ。」

スポーツマンシップに関する事には、特に敏感な吉田がそう言いながら入って来た。

「誰なの?」

真奈美が純に聞いた。

「同じ大学の奴さ。」

「嘘、前の彼女でしょ。」

「当たり。」

正則が小さく手を叩きながら言った。

「正則は黙ってろよ!真奈美、何でそう思うんだよ?」

純が言った。

「だって私を見る目が異常だったわ。」

「そうか、でも、もう終わった事なんだ。」

美樹の方を見ると、奥の方からこちらを睨んでいた。

「お前に会えたおかげで、彼女の付けた傷なんかかすり傷に思えるよ。」

真奈美の方に向き直ってそう言った。

「そう、じゃあそのうちそこに塩を揉み込んであげるわ。」

真奈美は純の手に爪を立てて言った。

ガチャーン!

その時、突然コップが割れる音がして、美樹が店を飛び出していった。そして、吉田は堂々としたスポーツマンらしく無く、その後をあたふたと追いかけて行った。

「あーあ、注文したものを作ってしまったよ。」

マスターががっかりした顔で言った。

「じゃあ、マスターそれこっちで貰うよ。」

純がすかさず言った。

「純、いいよ。そういう意味で言ったんじゃないよ。」

「マスター、俺の方こそそういう意味で言ってんじゃないよ。そのドリンクなら倍払ってもいい位だよ。とにかくこっちに頂戴よ。」

純は、戸惑うマスターにそう言った。

「そうか?悪いね。」

マスターはそう言いながら二杯のカクテルを純の前に置いた。

「さあ、正則飲めよ!乾杯だ!」

「おおうっ、この最高の四人にカンパーイ!」

正則はそう言って、グラスを高々と上げた。純は、正則が純の気持ちを誰よりもよく分かっていた事を知っていた。

 次の日、純は再び渋谷に出掛ける事になった。しかし、それは真奈美に会う為ではなかった。というのも、昨日の晩、真奈美の一件がよほど利いたのか、美樹が電話で再びモーションをかけてきたのだ。しかし、純は、実はこの事を分かっていたのだ。何故なら、美樹と鉢合わせする事、再びモーションをかけて来る事が全て、あのノートに筋書きとして書かれていたからだ。勿論、これから起ころうとしている事も全部書かれていた。しかし、これは純にとって、不気味であると同時に楽しい事でもあった。というのも、別に死が予言されている訳じゃないので、先行きが分かっている事は、自分が予言者であるように思える醍醐味でもあったからだ。待ち合わせ場所の喫茶店に着くと、全てを知られている事を知らない美樹が天使の革を被って、可愛く手を振っていた。純は、単なる真奈美への対抗心から自分へモーションをかけてきた美樹を見て、すこし悲しい気持ちになった。しかし、予言の正体を突き止める為、平静を装った。

「どういう風の吹きまわしだい?」

純は作り笑顔で言った。

「素敵な彼女ね。」

「ああ、捨てる神あれば拾う神ありって事かな。」

純はそう言いながら美樹の前に座った。

「うふ、相変わらずね。吉田君もいい人なんだけど、何かこう力が入りすぎて不器用な所があるの。純のような繊細な所をちょっと分けてあげたいわ。純はまたその逆で優しすぎるのよね。二人混ざればちょうど良かったのかもね。どうして私の場合こうなんでしょう、神様って意地悪ね。」

純は美樹の本心を見抜いているだけに、女性の不可解な気持ちを白日の元にされして見ているような気分だった。

「僕、コーラね。」

純は、ウェイターに注文をしてから続けていった。

「優しすぎるっていうのがわかんないよな。でも、俺は鍛えれば幾らでも強くなれるけど、あの獣に繊細になれと言うのは無理だと思うけどな。こればかりはセンスの問題だからね。でもどうしたの?僕のこと誉めちゃって。ねえ、もしかしてより戻したいの?」

純は、美樹の本当の目的を意地悪く突いてみた。

「嫌だ、そんなんじゃないわ。聞いてくれる?あたし純の事、嫌いで別れた訳じゃないの。だから、吉田君の事もはっきり言えなくってあんな煮え切らない終わり方をしたの。でもずっと気にしていたのよ。勝手だと思うかもしれないけど、あたし、純ともずっといいお友達でいたかったのよ。勝手だと思うかもしれないけど、あたし、昨日偶然会ったじゃない。その上、素敵な彼女が出来たみたいだったから、もしかしたらもうお互い恋愛を超えた素敵な関係になれるんじゃないかなって、そう思ったの。分かってくれる?」

ウェイターが注文したコーラを純の前に置くと、美樹がストローをむいて差し込んでくれた。

「そうだね。美樹みたいに可愛い友達なら幾らでも歓迎だ。」

純は、そう言って美樹の顔を覗き込んだ。しかし美樹は臆することなく、相変わらず可愛い女を演じていた。それを見た純は、ちょっと意地悪な事を思いついた。それは、吉田が他にも付き合っているという女と会わせる事であった。哲夫のノートによると、吉田はクラブのマネージャーの友子と出来ており、それが美樹にいずればれる事になっていた。そして、そこで失望した美樹が純の所に再び帰ってくる筋書きになっていた。吉田が友子と本当に出来ているのか、それともまだ先の事なのか、またはそんな事は起こらないのか、純には分らなかったが、ノートの正体を突き止める為にも、会わせてみる事にした。友子の家は中野で小さなスポーツ店を経営しており、吉田はそこへよく買い物へ行っていた。友子もまたいい加減な女で、マネージャーである事をいい事にクラブの男たちの間をてんてんとしていた。そんな事だから、吉田は友子の事を縛る事はしなかったし、友子も美樹の事を知っていたが、何も言わなかった。それに吉田にとって、友子はセックスフレンドであると共に、クラブをまとめる為の大事なアイドルでもあった。だから、あまりおおっぴらにする訳にはいかなかった。純も友子のいい加減さについて幾つかの噂は耳にはしていたが、本当かどうかは知らなかった。しかし、そういった噂があり、しかもノートにそれが書かれていた事がその信憑性を高めた。純は、とにかく美樹をそのスポーツ店に連れて行ってみる事にした。

「美樹、分かったよ。これ程よく分かりあっている友情というのもなかなか出来るものじゃないしな。これから友達として、色々相談に乗ってくれよな。」

「こちらこそ宜しくね。」

美樹が嬉しそうに言った。

「これからちょっと買い物があるんだけど、付き合う?すぐ終わるよ。」

「なんか買ってくれる?」

「おい、友達関係にそういうのは無しだよ。その代わり、終わったら飲みに連れて行ってあげるよ。」

「わっ、嬉しい!」

美樹は何も知らず、純の買い物に付き合う事にした。そこで早速二人は、店を出て中野にある友子のスポーツ店へ向かった。友子は店の手伝いをしている筈だが、吉田が来ているかどうかは分らなかった。しかし、友子に美樹を会わせるだけでも、友子の動揺ぶりから吉田との関係を予想できるし、二人が一緒だった事を吉田にも黙っていないだろうと思った。

「今度、正則たちとテニスを始めるんだけどラケットがないんだよ。」

純はそう言って、友子のところのスポーツ店に入った。

「こんなところで買うの?」

何故こんな所にわざわざ来るのか、美樹には分らなかった。

「友達がバイトしてて、安くしてくれるんだ。あれーいるかな?」

純はそう言いながら店の中を見回した。しかし、友子も吉田もいなかった。

-あれ、いないのかな?

「いるかどうか聞いてくるからここで待っててくれる?」

純はそう言って、友子の居場所を店員に聞きに行った。

「先程クラブのお友達がいらしたので、休憩を取って、前の喫茶店に行きましたけど…」

純は、多分吉田だろうと思った。そこで、カタログだけ貰って店を出た。そして、

「バイト休んでるみたいだから買うの止めた。」

純は美樹にそう言うと、次に、友子達がいるという喫茶店がよく見える店を探した。するとちょうど道の反対側に、ガラス張りで外がよく見える店があったので、そこに入る事にした。

「なあ、どのラケットがいいと思う?」

純はそう言いながらカタログを広げ、友子達が出てくるのを待った。それから20分ぐらい経った頃、ついに友子達が出てきた。相手はやっぱり吉田だった。しかも、友子が吉田の袖にしっかりつかまっているという文句なしの状態だった。

「美樹!あれ見ろよ。」

純はしらじらしく、外を指さした。

「吉田君だわ!」

隣の女の存在にも気づいたらしく、怒りに震えていた。

「許せない!」

美樹は立ち上がって出て行こうとしたが、純はそれを止めた。

「今出て行ったってしょうがないぞ。自分のいる立場を考えろよ。」

純がそう言うと美樹は一瞬出て行くのを止めたが、仲良さそうに腕を組んでこちらの方に歩いてくる姿を見て我慢できなくなった。

「純、ご免なさい。私行く。」

美樹はそう言うと外へ飛び出して行った。純も慌てて会計を済ませて後を追った。外に出ると二人の姿を見失ったらしく、美樹がきょろきょろしていた。多分スポーツ店に戻ったのだろうが、今までいたスポーツ店に二人が入るとは想像もつかない様だった。

「多分あそこだよ。」

純は、たまたまその裏にあったラブホテルの看板を指して言った。すると美樹は慌ててホテルの方へ走って行った。そしてホテルの前に着くと、純にカップルを装うように頼んで中に入った。

「あのー、今若いカップルが入ってきませんでしたか?」

「入りましたよ。」

「どんな人でした?色の黒いスポーツマンでしたか?」

「お客様のプライバシーについてはお話できません。ご利用なさるのですか?なさらないのですか?」

フロントの人が機嫌悪そうに言った。

「いいから出よう。」

純はそう言って美樹とホテルを出た。すっかり落ち込んでしまった美樹は、やけになって飲みに行く事にした。吉田の事ですっかり荒れてしまった美樹は、その勢いで、純と再び関係してしまった。

 純は、美樹を送って家に帰ると、自分の部屋で再びノートに目を通した。

―何故当たってしまうのだろう?

純は考え込んだ。

―これを書くには、俺の周りの情報を知る必要がある筈だ。しかし、一体どこからこうやって仕入れるのだろう。仮に情報を得たにしても一体何故それが現実に起こるのだろう。親父に何か強力なバックアップがあって、そして、何かドッキリカメラみたいに全てを仕掛けているという事も筋書きとしてはあり得るが、それならそれで何のためにそれをするのだろうか?何のメリットも見られない。仮にただドッキリカメラのように人の人生をもてあそぶ為だとしても、それならそれでもっと楽しいものを演出する筈だし、それを楽しむべき視聴者みたいな人もいるべきた。しかし、そんなものいないし、いる筈がない。しかも、これだけ周りのものを綿密にそういう方向に持っていくとしたら、それこそ相当大がかりな仕掛けを必要とするだろう。そんな大それた事をヒトラーや、アインシュタインといった特別な人の人生を演出するためなら分かるが、僕のような変凡な青年の人生の為にする筈も無いだろう。全く、何のメリットもない。大体親父にそんなバックアップがある筈がないし、美樹たちの行動にしたって、意識的にそう動いているようにも見えない。それに親父にそんなバックアップがあるとすれば、そんな事の為に使わず、他の事、例えば、自分の仕事などに活かすだろう。すると親父は、未来を言い当てる預言者か宇宙人か?それとも全てが全く不思議な偶然の一致なのか?しかし、どれも現実的な根拠としては希薄すぎる。しかし、事実このノートに書かれている事はかなり高い確率で現実に起こる。今日の事に関しては、自分で意識してそういう方向に持っていった事もあるが、吉田の事が事実であった事の意外性に変わりない。それならば、これから先の事もこのノートに従って起こっていくだろうか?そうだ、次はこのノートに書かれていく事がどういう力で起こっていくかを突き止めてみよう。このノートによると、俺と美樹は焼けぼっくりに火が付き、真奈美と一騒動起こす事になる。それと、正則と久美子が付き合うという驚くべき筋書きも書かれている。全く、親父は何を考えているのだろう?とにかく、これらの事が起こらないようにしてみよう。もし、親父の超能力的な力がこれを起こしているのなら、俺はその運命に逆らえないだろう。しかしこれが人為的にそういう方向に持っていかれている事ならば、何者かが必ず、そちらの方向に向くように関与してくる筈だ。二兎が関与する事に親父が超能力を働かす事も考えられるが、これなら直接僕にその力を及ぼすだろう。だいぶ現実離れした推理かもしれないが、もうこの現象自体が現実離れしている事から、まず普通の推理では謎は解けないだろう。

純はノートを見ながら、脳みそがパンクするほど考えた。

案の定その夜、美樹からまた電話があった。吉田への不信感と真奈美への対抗心が重なったのか、純とのよりを戻したいという。しかし、純は預言を曲げる第一歩として美樹の申し出をきっぱりと断った。しかし純は、その夜なかなか眠れなかった。それはいよいよ謎へ一歩近づく好奇心と、もしかしたら、とてつもないものをあぶり出してしまうのではないだろうか、という恐怖心からだった。

 次の日、哲夫達が旅行から帰って来た。

「ただいまー!純、いるのかー!」

「親父達だ!」

純は、慌ててコピーした書類をベッドの下に突っ込み、玄関の方へ走って行った。

「純、おとなしくしてたか?お土産かいっぱいあるから楽しみにしてろよ。」

哲夫がやさしい顔でにこにこしながら言った。純はそれを見て思った。

-今起こっている、いや、知らずにずっと起こっていたというべきか、とにかくこれらの事が、一体どうやってこの平凡な親父とつながるのだろう。

「お帰り。どう、楽しかった?」

純は心の中でそう思いながらも平静を装い、荷物を中に引き入れた。

「楽しかったけど疲れたわ。」

芳恵が言った。

「ええー、あたしもっと遊びたかった。」

久美子は向こうで買ったらしい新しい服を着ていた。

「よし、早速純のお土産を見せてやろう。」

哲夫はそう言うと、部屋の中で荷物を広げ出した。すると中から次々と高級品が出てきた。

「また日本人の恥をさらすような買い物をしてきたんじゃないだろうなあ?」

「まあ、そう言うな。とにかく安いんだから。これなんか偽物だけど良く出来てるぞ。」

哲夫はそう言いながらコピーの時計を二、三個取り出し、純と自分のものを分け始めた。

「純、向こうから電話を掛けたけど、いなかったみたいだね。」

「だって乗れない車を目の前にして、大人しくしてるのは辛いもん。ねえ、もう鍵返してくれるでしょ?」

「まあ、慌てるな。その事は後でゆっくり話しよう。」

哲夫はそう言いながら、軽くウィンクした。だいぶ機嫌が良いようなので、純もそれ以上催促しなかった。哲夫は純にお土産を渡すと、向こうでの楽しかった話を喋り始めた。純も、東京でどう過ごしていたのか聞かれたが、うまく誤魔化した。

「今夜作るおかずがないわ。買い物に行かなくっちゃね。」

芳恵が台所の方で言った。

「まあ、疲れているだろうけど、今日は家で食べようや。」

哲夫が言った。

「分かったわ。」

「お母さん、私も手伝うからね。」

久美子がそう言うと、皆が顔を見合わせた。何故なら、以前に久美子の料理でひどい目にあった事があるからだ。

「芳恵、やっぱり外へ食べに行こうか。」

哲夫がそう言うと、純も頷いた。

「みんなひどい!」

久美子が泣く真似をしながら言った。

「ひどいのはお前の料理だ!」

純が言った。

「みんな何を言ってるんですか。久美子はもう料理が上手になったんですよ。久美子、買い物に行きましょ。」

芳恵がそう言うと、久美子は嬉しそうにそばにすり寄った。

「ねえ、どうせだったら新しい車で行こうよ。」

久美子が純に当てつけるように言った。

「そうね、あなた、車の鍵貸してくださる?」

純は一瞬ドキッとした。

「よし、今取ってくるよ。」

哲夫はそう言いながら二階の書斎へ鍵を取りに行った。純は、全て完璧に戻しておいたが、それでも何か忘れているような気がして、心臓がドキドキした。

「おい!」

二階で哲夫の呼ぶ声がした。

―ばれたのかな。

「ゴキブリがいるんだ、殺虫剤持ってきてくれ!」

哲夫がそう言うと、久美子が殺虫剤を手に上に行った。純は、なおも心配そうに見守ったが、間もなく久美子が鍵を手にルンルン降りてきた。

「お母さん、早く行こう。」

久美子が芳恵の手を引いて買い物に出ると、哲夫が降りてきて再び旅行の話をし始めた。

―どうやら大丈夫だったらしい。

純は、ホッと胸を撫で下ろした。そして哲夫を見て、目の前で話す姿は以前と何ら変わらないのに、哲夫を見る自分の目が大きく変わっている事に悲しみを覚えた。

―そうだ、向こうでの久美子の話を聞いてみよう。

「向こうで久美子にボーイフレンドが出来たんだって?」

「そうだよ。まあ、ボーイフレンドと言っても取引先の坊主だ。どうという事はないよ。」

「何だ、それだけか。でも久美子もいい加減だよな、こないだドライブ行った時は正則がいいなんて言ってたんだから。」

「まだ子供だからね。いい加減なんだよ。」

「子供ねー、親父はそう思うかもしれないけど、正則はそう思ってないよ。友達の悪口は言いたくないけど、あいつだけは久美子と付き合っては貰いたくないな。そう思わない?」

純は、哲夫が自分の書いたシナリオについてどう反応するかを試してみた。

「馬鹿言ってんじゃないよ。たとえいい奴だって久美子は付き合わせないよ。」

意外な事に、哲夫はむきになって同意した。

-おかしいな、正則とくっつける筈なのに、まあ、素直に言うはずないか。

純は心の中でそう思った。

「じゃあ、どんな奴だったら付き合わせるの?」

「娘は父親にとって恋人と同じ。誰にもやらん!」

「それって危なくないか?」

「馬鹿、お前もこの親になれば分かる。」

哲夫はそう言って、ウィスキーの水割りを作りに台所の方へ行った。

「純、明日から車乗っていいぞ!」

照れくさいのか、台所の奥から水割りを作りながらぼそっと言った。

「やった!」

純は飛び上がって喜んだ。

「ただいまー。」

ちょうどその時、芳恵が買い物から帰って来た。

「ママ、パパ、大変!」

その後を久美子が血相を変えて入って来た。

「どうしたの?」

芳恵が聞いた。

「お兄ちゃん車に乗ってる。旅行の間使ってたのよ!」

久美子が興奮して言った。

「久美子、どういう事なんだ?鍵はちゃんとあったぞ。」

哲夫が不思議そうな顔で聞いた。

「知らないわよ。でもあたし、ちゃんと行く前に距離計を見て行ったのよ。それで、今見たらすっごく増えてるんだもん!」

「嘘つけ!いい加減な事言うなよ。それは正則達と遠乗りした分だろ!」

純は、久美子の鋭い指摘にムキになって反論した。

「あたしそんな馬鹿じゃないもん!お兄ちゃん絶対に我慢できないと思って見ておいたんだもん。百七・八十キロもどこへ行ったんですか?」

久美子が勝ち誇ったように言った。

「純!本当なのか?鍵はどうしたんだ!まさか、書斎に入ったんじゃ…」

哲夫が言った。

「俺、そんなところ入ってないよ。実は、車屋に電話して合鍵持ってきて貰ったんだ。ほんとご免なさい。どうしても乗りたかったんだ。」

純はそう言って頭を下げた。

「嘘よ、嘘!そうして車屋さんが連休も営業してるのよ!」

「馬鹿!連休で皆が遊びまわっていると思ったら大間違いだぜ。大体お前もやる事せこいよ。何か恨みでもあるの?正則に香港でキスした事ばらすからな。」

純はうっかり、親父の作品に書いてある事を言ってしまった。

「どうしてそれを…!?」

久美子が驚いて、一瞬黙った。哲夫も純の言葉に驚いた。

「やあい、カマに引っ掛かってんの。お前みたいなスケベのやる事ぐらい誰だって分かるよ。」

「お兄ちゃんの馬鹿!あたしそんな事してないもん、お父さん本当よ!」

久美子は、くやし涙を流しながら訴えた。

「久美子、分かってるよ。それより純、今言った事は本当だろうな。どっちにしろ明日、車屋に電話すれば分かるんだぞ。」

「分かってるよ。」

純は、すぐばれるのを分かっていたが、とにかくこの場を何とか逃れなくてはいけないと思った。書斎に入ったのがばれようものなら、事がややこしくなるのは目に見えているからだ。純は、どうにしてでも時間を稼ぎたかった。

「純、とにかく今持っている鍵を渡しなさい。」

哲夫は厳しい口調で言った。純は焦った。それを見られでもしたら、作った合鍵である事がばれてしまうからだ。そして、運の悪い事に鍵をポケットに持っていたからだ。

「あ、あの、帰ってきてばれるのが怖かったから、捨てちゃったんだ。」

純は、追い詰められて焦ったせいか、下手な嘘をついた。

「ポケットのものを出してみろ。」

あたかも全部見抜いているように、哲夫が厳しい口調で言った。

「えっ、でも…」

純はどうしていいのか分からず、子供のようにうつむいてしまった。

「早く出しなさいよ!」

久美子が純のポケットに手を掛けようとした。

「止めろよ!」

純が怒って久美子の手を払うと、ポケットの中で鍵がチャリンと鳴った。

「貴方、もう止めて!」

取り返しのつかない喧嘩になることを薄々感じたのか、芳恵が止めに入った。

「いいから黙ってろ。純、出すんだ。」

哲夫は純をグッと睨みつけて言った。

純はついに観念して、ポケットのものをゆっくりと出し始めた。財布、小銭、街でもらったチラシ、果ては死ぬほど恥ずかしいコンドーム。とにかく一つづつゆっくり、丁寧に出した。そして、無駄だと分かっていても何とか時間を稼ごうとした。奇跡のような突破口を期待して…。

「ほらね、だから鍵は上だって言っただろ。」

純は、鍵をポケットに残したままとぼけた。

「どうしてうそをつくんだ!」

哲夫は立ち上がると、純のポケットに手を入れて鍵を取り出した。

「何だこれは…!作った合鍵じゃないか。馬鹿者!」

バシーン!

哲夫は、ついに手を上げた。初めての事だった。

「貴方やめて!」

それを見て芳恵が慌てて止めに入った。叩かれた純の口から血がにじみ出た。

「何するんだよ!ああ、確かに親父の書斎に入ったよ。合鍵も作ったよ。でも親父も人の事偉そうに言えるの?なんなんだよ、親父の作品。俺とか久美子のプライバシーに踏み込んで、題材にしているじゃないか。あれはどういう事なんだよ?一体誰から聞いてああいう事書いてるんだよ?もっとおかしいのは、香港に行く前から久美子の事が書いてあるじゃないか。久美子、お前も何も分かってないんだよ。香港に行く前から親父は、取引先の男の子とデートする事を知ってたんだぞ。事実それをストーリーにして書いてるんだ。気味悪いよ!」

ついに純は逆上して全部喋ってしまった。哲夫はそれを聞いて、拳をぎゅっと握り青ざめた顔でブルブル震え出した。

「どういう事?お兄ちゃんの言ってる事はどういう意味なの?」

久美子は哲夫の体を叩きながら問い詰めた。

「久美子、純は頭にきて自分の言ってる事が分かっていないんだ。芳恵、久美子を上に連れて行ってくれないか。」

「はい。さあ、久美子、上に行きましょう。

「嫌よ、何があったの?お兄ちゃんはお父さんの書斎で何を見たの?」

久美子は、純の突飛な話に何が何だか分らなくなった。

「久美子、お父さんも分らないんだよ。純が何を勘違いしているのか、お父さんも分らないんだよ。」

哲夫は、少し平静さを取り戻して言った。

「親父、とぼけるつもりかよ!俺が美樹と出会う時の事から、別れる時の事まで書いてるじゃないか。久美子の初恋の相手、ええと何だっけ、後藤何とかっていうのも書いてあったじゃないか。」

「ええ、リュウちゃんの事も!?お父さん、本当なの?」

哲夫は何を聞かれても黙っていた。

「本当に決まっているじゃないか。じゃあ、何で俺がそれを知ってるんだ。久美子から聞いた覚えないぞ。さあ、親父、どこから聞いたか説明して貰おうじゃないか!」

逆上した純は、哲夫に執拗に迫った。

「何を言ってるのかさっぱり分らん。大体親に向かって、何という口をきくんだ!」

「汚いぞ!」

純は罵るように言った。

「お父さん、本当の事教えて。」

久美子も興奮して泣き始めた。

「もう止めて!お父さんをいじめるのは止めて!本当はあたしが全部悪いの。

突然芳恵が泣きながら間に入った。

「芳恵…」

哲夫はあっけに取られるように芳恵の方を見た。

「お父さんご免なさい、あたしの為に。皆聞いて。実はあたしが全部知ってたのよ。それをアイディアにつまったお父さんに教えてあげてたのよ。純、ごめんね。ほら、PTAとかで色んな人たちに会うでしょ。その時に色んな事も聞いてしまうのよ。それで色んな噂を聞くと、やる事ないから、もっと聞きたくなっちゃうのよ。それで美樹ちゃんのお母さんとか、後藤君ちのお母さんとかと仲良くなって色々聞くのよ。お母さん達っていうのはね、あなた達が思っている以上に子育てという事で繋がっているの…。お父さんは何も悪くないんだから、もういじめないで…」

芳恵はそう言って、その場に泣き崩れた。

「お母さん泣かないで…、お母さん泣いたのお兄ちゃんのせいだからね!全く、何変な事言ってるのよ!そんなの、どうだっていい事じゃないの!お母さんもう寝よう、ねっ?」

久美子はそう言うと、芳恵に寄り添いながら二階へ上がって行った。

「純、そういう事だ…。もう黙って書斎に入るんじゃないぞ。鍵の事ももう、どうでもよくなった、返してやる。俺ももう疲れたから寝るぞ。」

哲夫は鍵を机の上に置くと、疲れた様子で二階へ上がって行った。

「お袋が犯人だったのか。そうだよな。予言とか、秘密結社とかある訳ないよな。俺って本当に馬鹿。」

純の中で、誇大妄想的に広がった仮説が意外に平凡な幕を閉じたので、力が一変に抜けたみないになった。

「ああ、これでやっと普通の生活に戻れる。そうだよな、気付かないようで、俺も誰かしらに色々話してるものな。それを、そいつが自分のお袋に話して、そのお袋が家のお袋に話す。それをお袋が親父に話してて、親父がそれを題材にして書く。そして、人間の行動パターンなんてある程度決まってるから、偶然当たってします。これで決まりだな。さあ、俺も寝よう。それにしても大したものだね、女のネットワークっていうのも…」

純は、部屋の電気をパチンと消して、二階へ上がって行った。庭の方を見ると、いつものどら猫が、家という箱の中で馬鹿を演じる人間を嘲笑うかの様に見ていた。

 不思議な事に、それからはノートに書かれているような事は起こる気配がなくなった。そのおかげで、純もすっかり気分が晴れ、普通の生活のサイクルを取り戻した。そして家族の間も隠し事がなくなり、オープンになったので、前より仲良くなった。例えば哲夫は、自分の作品を見せ、希望があれば書斎の中にも入れるようになった。芳恵はPTAのネットワークで入った面白い話をみんなに聞かせるようになり、逆に純達も、芳恵にいろいろな情報を提供するようになった。そのおかげで、純と久美子の間にも共通の話題が増え、喧嘩がなくなった。その上真奈美との交際もうまくいっていたし、とにかく純にとってすべての事に運が回ってきたようであった。

 それからしばらくした或る日、純はいつものように真奈美と渋谷の街をデートしていた。

「どうしたの?最近とっても嬉しそう。」

嬉しさで緩んだ顔を覗き込んで真奈美が言った。

「そうか?よくわかんないけど、とにかく世の中が全部スカッと気持ちいいんだ。なんて言うか、いままで曇った眼鏡を知らずにかけて生きてて、それに気付いて、今は曇りの取れた眼鏡で全てを見ているような感じだ。」

純は、真っ青な空に背伸びをしながら言った。

「ふーん、よくわからないけど素敵そうね。」

「でも、透き通った眼鏡の向こうに君がいるから、幸せなんだけどね。」

「うまいわね。」

真奈美は嬉しそうに笑った。

前の方をふと見ると、宝くじ売り場があった。売上が良くないのか、おばさんがしきりに道行く人に声を掛けていた。

「いかがですか?本日発売ですよ。」

「宝くじか…。なあ、いますごくついてるから、当たりそうな気がするんだよ。」

純は、真奈美の方をくるっと振り向いて言った。

「じゃあ、買いなさいよ!そういうひらめきは大切にした方が良いわ。」

真奈美も、純の自身に溢れた顔に何かを感じたのか強く勧めた。

「よし!」

純は訳のわからないガッツポーズを決めてから、弾むように売店の方へ走って行った。

「おばさん、10枚ください。」

「あいよ。」

宝くじを買った二人は、もうすっかり、と言うより断定的に当たった気分であった。

そしてその勢いに乗って、方々でウィンドウショッピングを楽しんだ。

「当たったら、あれ欲しいわね。」

「これも良いな。」

二人は興奮して、竜巻のように売り場をかき回した。

「当たらなくても、これだけ味わえたら安いかもね。」

「そうね。でも絶対当たる!」

真奈美は欲しいものを色々見て回るうちに、純より強く当たる事を望むようになっていた。

こうして一日中楽しんだ二人は、次に下北沢のポチへ行く事にした。

「またポチに行くの?美樹ちゃんに会ったら嫌だな…」

真奈美は少し心配そうに言った。

「たぶん向こうもそう思ってるから、来ないよ。」

純がサラリと説得した。

店に着くと正則がショートヘアの可愛い子と一緒に来ていた。美樹たちは来ていない様だった。

「純、真奈美、相変わらず仲良くやってるね。早くこっち来いよ!」

気付くのが異常に早い正則が奥の方から叫んだ。

―またうるさいのが居るな。

純は、そう思いながら手を振り返した。

「マスター、正則また新しい子連れてきてるの?」

「いや、同じ子みたいだよ。」

マスターはシェイカーを忙しそうに振りながら言った。純は、「同じ子」どの「同じ子」か分からなかったが、聞くより見た方が早いと思って、正則たちの方へ行った。

「何処行ってきたんだ?」

正則は女の肩に手を回しながら横柄な態度で聞いた。女もまた、その前時代的所有される感覚を楽しんでいる様だった。

「渋谷をぶらっとね。ところでその子は?」

「それはないでしょう、久美子だよ。はら、美樹たちとかち会っためでたい日に紹介したじゃないの。」

純達は驚いた。何と、正則と一緒にいたのは、髪の毛を切ってすっかり変わってしまった久美子であった。久美子は、短くなった髪を左手で恥ずかしそうにかき揚げ、挨拶した。

「髪の毛長くなかったっけ?」

純が言った。

「あら、素敵じゃない、すごく似合ってる!」

真奈美もショートヘアにしたいを思っていたので、とても興味を示した。

「まったく、イメージチェンジするんだったら名前も変えて欲しかったな。やっぱり、妹と同じだと気になるよ。」

「そうかい?俺なんか、同じ名前の方が覚えるのが楽でいいよ。何せ、お前と違って覚える名前多いから…」

正則は笑いながら言った。

「ねえ、その髪の毛どこで切ってもらったの?私もショートヘアにしてもらおうかな。」

真奈美は、久美子のショートヘアが気に入ったらしく、美容院の場所を一生懸命聞き出そうとしていた。しかし、純は真奈美のストレートで艶のある美しいロングヘアが気に入っていたので、正則と話をしながらも気が気ではなかった。

「でも、お前にしては結構続いてるじゃない、今度の子…。」

純は正則の耳元で言った。

「まあね、名前が良いからね。」

正則はからかうように言った。

「なあ、明日の授業は午後からだろう?どうだ、久々に泊まりに来ないか?」

正則は、ちらちら真奈美たちの方を見ている純に続けて言った。

「聞いてるのか!」

「聞いてるよ。そうだね、ここん所二人でゆっくり話してないもんな。」

「そうだよ、お前完全に真奈美の方に比重置いてるぜ。もっと俺を大事にしろよ。」

純は、自分でも確かに友情より恋愛に比重を置いていたと思った。そこで、久しぶりに正則の家に泊まりに行く事にした。真奈美にその事を言うと、真奈美の方も久美子と息が合ったらしく、彼女の所に泊まりに行く事にした。

「髪の毛切る時は、絶対相談してくれよ。」

純は心配なので、一応念を押したが、真奈美はいたずらっぽく笑いながら行ってしまった。純達も店を出て深夜スーパーで酒とつまみをいっぱい買い込んでから、正則のところへ向かった。正則は親と一緒に住んでいたが、部屋が独立した形で離れた所にあり、夜の出入りは勿論、幾ら騒いでも大丈夫であった。正則は純を部屋に通すと、家の方の台所へ氷とコップを取りに行った。純は、昔から泊まりに来ていたので、自分の部屋のように落ち着けた。適度に汚れていて気を使わなくて済むのも気に入っている原因の一つであった。純は、正則が準備している間、部屋にあるビデオを見る事にした。デッキには既にテープが入っており、電源とスイッチを入れると、画面が写し出された。

「何だよこれ、正則もしょうがないな。」

純はテレビを見て苦笑いした。何と、中に入っていたのは、ポルノビデオだったからだ。純も、何だかんだ言いながらそれを見ていたが、そのうち不思議な事に気がついた。

「この主演の子、どっかで見た事あるような気がするなぁ。」

ビデオに出ている子が誰かに似ているのだが、はっきり分らないのだ。純が頭をかしげていると正則が帰ってきた。

「お前も好きだね。俺が来るまで待てないの?」

「馬鹿言え、まともなものはないか、色々探してるとこだったんだよ。」

純は少しムキになって言った。

「そう、じゃあ他のにする?」

「いや、いいよ。まあいいから早く飲もうぜ。」

純はその場を誤魔化すようにして正則の持ってきたコップを手から取った。

「ところで正則、この子どっかで見た事あるけど、売れてる子なの?」

「美樹だよ。」

正則が言った。

「ええ、嘘だろ!いくら俺と吉田に振られたからって、ここまで落ちないだろ。」

「お前に振られた?お前が振られたんじゃないか。」

「何言ってんだよ。その後より戻したいと言ってきたのは知ってるだろ。」

「それは真奈美への対抗心でそう言っただけで、本当にそう思ってた訳じゃないと思うよ。」

「頭来るなー。それでもう一回抱かれるか?」

「ええ!そいつは知らなかったなー。全く、しばらくほっておくとこれだもんな。今夜は色んな話が聞けそうだな。」

正則はにやっと笑って、コップにウィスキーを注いだ。

純は、しまったと思った。つい頭にきて言ってしまったが、あの事は正則には黙っていたからだ。

「ところで、これ本当に美樹なのか?」

純は慌てて話をビデオの方に戻した。

「馬鹿、違うよ、でも似てるだろう。お前に見せてやろうと思って借りておいたんだ。」

純は違うと言われて安心した。しかし、そのビデオギャルがあまりに良く似ていたので、頭の中で、抱いた日の事を鮮明に思い出した。そして、その寝た経緯を正則に話そうかを迷った。

―どうしよう。表面的事実だけを話すか、それとも親父のシナリオについても話すか。その時は予言みたいな不気味な物と思っていたけど、結果は現実的な原因があったんだから笑い話としても話せるけど、それでも話がややこしいもんなあ。

正則は純にとって親友だったが、性格上、すべてを話して信じて貰えるかどうか心配であった。

「純、飲めよ。」

正則は、話そうか迷っている純に気づいたのか、酔わせてはかせようと幼稚な作戦にでた。純の方もそれに気付いて、酔った振りをしながら逆に正則を酔わせて、とっぴな話が出来る土壌を作った。お互い酔っていれば、どんな話でも後で「酔っていた」という言い訳ができると思ったのだ。純としても、正則はかけがえのない親友だったから、少しとっぴでも本当の事を話したかったのだ。

「純!美樹との事、早く話せよ。まだ心の準備が出来てないんだったら、真奈美との事でもいいぞ!」

正則は酔っ払って、すわった目でからむように言った。

「分かったよ。でも、全部話すと長いからな…」

「馬鹿!その為に泊まりに来てるんだろう。」

執拗な正則の質問攻撃に、純は観念して全てを話す事にした。そこで、書斎に忍び込んだ事、予言みたいに当たる事、ノートの事、そして母のネットワークの事をつっかえているものを全て出し切るように話した。しかし、正則がその気になるといけないので、久美子との仲について書いてある事は話さなかった。

「おう、確かに全て聞かせてもらった。お前はやっぱり面白い奴だよ。凄い想像力、普通はそこまで考えない。天才だ。大天才!そうだよ、お前なら親父の夢を果たせるよ。物書きになれよ。うんそれ、絶対いいよ。」

やはり、正則は信じていない様子だった。しかし、純は自分が正直に言ったという満足感さえあればよかったので、それ以上何も言わなかった。

「お前本気で言ってるの?俺、文書くのうまくないし、勉強嫌いだし…。」

「関係無いの、お前はアイディアで勝負しろよ。文は文のうまい奴でいていい訳、文の下手な奴はアイディアで勝負すればいい訳。勿論両方持ってるにこした事はないけどね、でも、大丈夫だよ、その内書けるようになるよ。とにかく、喋ってる事を文字にすればいいんだよ。意味が伝わればいいの。考えても見ろよ。歌の下手な歌手がいるんだから、文の下手な作家がいてもおかしくないよ。下手うまの時代よ。な、絶対頑張れよ!」

「そうか?」

正則が、唾を飛ばしながら断定的に言うと、純も少しその気になって返事をした。

「それから、今の話を聞いて思った事がある。お前やっぱり美樹とよりを戻せ。なあ、お前の親がそういう事を書いてるというのは、予言じゃないにしろ、それを願っているからなんだよ。子を思わない親はいないんだから。親から見て美樹の方がお前に相応しいと思うのも、それなりの理由があるからなんだよ。」

「ちょっと待ってよ。」

純はちょっとムッとして言った。

「いいから聞け!俺も正直言って美樹の方が好きだ。真奈美の事をよく知らないからかも知れないけどな。」

「でも、美樹は俺を裏切ってるんだぜ。」

「子供だな。だから、いいんじゃないか!それかから、今お前の本当の良さが分かったんじゃないか!そこでお前が心の大きいところを見せて許してあげるんだよ。そうすれば、もう絶対裏切らないぜ。「許す」これ程固い愛の証はない。そういう障害を乗り越えた愛の方が絶対だって。そう思わないか?真奈美も良いけど、女なんて皆同じなんだから。絶対真奈美ともその内同じような事な事になると思うよ。同じ事を二度繰り返すより、早く自分に相応しい子を見つけて落ち着いた方がいいぞ!」

正則は酒の匂いをプンプンさせて、純に迫ってきた。

「よく言うよ、お前は落ち着いてるのかよ?」

「俺はいいんだ。」

「勝手だよ!俺は真奈美の方が好きなんだ。そんな障害を乗り越えた、確かな愛の証なんか俺はいらない。俺は真奈美に初めて会った時に、体の中を走った衝撃を忘れる事が出来ないんだ。俺はその直感を大事にしたいんだ!」

純はムキになって言い返した。それは、純がもう完全に真奈美を愛していた事を強く証明していた。正則も、さすがにその真剣な眼差しを読み取った。

「このアホ!お前はただ真奈美が目新しいだけなんだよ。お前の親父の予言を実行する訳じゃないけど、俺は美樹を勧める。お前の為にな。」

正則はそう言ってプイっと横に寝てしまった。純は正則が何故そんなに美樹を勧めるのかしばらく考えたが、やはり分らなかった。しかしそれは、真奈美の存在が美樹を完全に凌駕していて、美樹の良いところが何処も分からなくなっているからだった。

「真奈美、愛してるよ。」

純は寝る前に、お祈りのように真奈美の名前を呼んで、コロンと寝た。

 後で分かった事だが、正則のビデオに出ていた子は、白木恵美子と言って人気急上昇の新人女優であった。そしてその白木恵美子の知名度が上がるにつれて、美樹がそれに似ていると気付く人も増えた。ポチのマスターもその一人だった。

「最近テレビによく出てる白木恵美子とかいう子、美樹ちゃんによく似てると思わないか?」

「そうなんだよ、皆そう言うんだ。でも似てるから何な訳?もう、俺とは関係無いんだよ。」

純は内心、「またか」と思ったが、当たってるだけに強く言い返せなかった。

「何なんだよって、人気があれだけ出るという事は、その手の子が、皆の憧れだって事であり、そんな皆も憧れるような子を勿体ない事したな、という事だよ。」

一緒にいた正則は、美樹の方が良いと思ってるだけに強く言った。

「芸能人に似てるからって、関係ないよ。俺は真奈美がいいの!」

純は、苛々しながら吸っていた煙草を揉み消した。

するとその時、美樹が数人の女友達を連れて入ってきた。そして、純に気付くと、にこっと笑顔で挨拶した。

「まだ、お前に気があるみたいじゃないか。吉田とも別れたらしいよ。」

正則が耳元で囁いた。

「関係ないよ。それにしても遅いな、真奈美…」

時計を覗き込むと約束の時間を10分程過ぎていた。

「美樹ちゃん、なんか前より綺麗になったみたいだね。」

マスターが言った。

「やっぱり白木恵美子に似てるから、意識して綺麗にしてるんだよ。ほら、よく人に見られると綺麗になると言うじゃない。」

確かに正則が言うように、前より遙かに垢抜けたように見えた。

「マスターあの子、もしかして白木恵美子?」

純の隣に座っていた若い男たちの一人が聞いた。

「いや、違いますよ。」

「うそー、似てるね。よくここに来る子ですか?」

「ええ、彼女に限らず、うちに来る子はみんな可愛い子ですよ。」

「本当かよ!俺、常連になっちゃおうかな。」

男たちはそう言いながら、美樹の方にしきりに手を振ったりして、メッセージを送った。

「凄い人気だな。」

「似てるだけであんなに騒ぐなんて馬鹿じゃないの。」

純はそう言いながらも、何となく気になった。

「遅くなってご免なさい。」

真奈美が息を切らしながら入ってきた。そして、美樹の方に気付くと軽く挨拶した。

「美樹ちゃんも来てるじゃない。ねえ、思ったんだけどあの子最近売り出し中の何とかって子、ほら、今度ドラマに出る…」

「白木恵美子だろ。」

純が不機嫌そうに言った。

「そう、それ。あたしテレビ見て誰かに似てるなあ、と思ったの。」

「まったく、遅れてきた挙句そんなつまんない話するなよ。

純は、皆が美樹美樹言うので頭に来ていた。

「どうしたの?」

真奈美は、珍しく怒る純を見て不思議だった。

「美樹と別れて失敗したなと思ってるみたいよ。」

正則が、耳打ちするように言った。

「正則!!」

純は机をバンッと叩いて立ち上がった。

「真奈美、他の店に行こう。正則、悪いけどバイバイだ。」

純はそう言うと、真奈美の手を引いて出て行った。

「どうしたの?そんなに怒って…」

「まったく、皆、美樹美樹ってうるさいんだよ。俺は美樹、いや、ちくしょー!真奈美だけが好きなんだよ!」

純は、そう言って道端に落ちている缶を思いっきり蹴った。

「分かってるわ、純…」

真奈美は小声でそう言って、純の袖にそっとつかまった。

 その後も、白木恵美子ブームはどんどん盛り上がり、純は美樹に似てる事を前にも増して言われるようになった。そしてそれは、せっかく忘れた美樹を、純の深層心理に深く刻んでいった。そしてそれは、忘れようとすればするほど、頭に浮かび、真奈美とつまらないいざこざを起こす原因となっていった。そのおかげで、あんなに中の良かった二人に、まるで美樹の呪いがかかったように危機が訪れた。そしてとうとう、純はしばらく会わないで冷却期間を置く事にした。

それからしばらく経った或る日、正則から電話があった。

「純か?久しぶりだな。」

「ああ…」

純は、愛想のない返事をした。

「お前、なんか俺の事避けてないか?」

「お前が、美樹、美樹、言うからだよ。」

「俺、そんなに言ってるか?それはお前が美樹の事を意識してるから、そういう風に感じるんじゃないのか?人のせいにするなよ。だから言っただろ、お前は彼女を忘れられないって!」

「切るぞ!」

純は、受話器を投げ捨てたい気分であった。

「分かったよ、悪かったよ。それより、今日電話したのは、親友のお前に相談があるからなんだよ。」

「何だよ?」

「いや、それがね、その…、実は久美子に子供が出来たみたい何だよ。」

「本当かよ!」

純は驚いた。

「それでどうしたらいいか、お前の意見を聞きたいんだよ。」

「俺の意見って、それより、お前まさか、産ませるつもりじゃ…」

「それは俺だって親父にはなりたくないよ。」

「お前はあの子の事、どれ位愛してる訳?」

「それが、結構マジなのよ。」

「そうなんだ…。でも、こう言っちゃ悪いけど、お前の華麗な女性遍歴の中で、そう特別良い子には見えなかったけど、どうして?」

「そうかな?お前だけだよ、そう言うの。無理もないだろうけど…。」

「どういう事?」

「いや別に…。それよりどうしよう?」

「堕ろすしかないんじゃないの?」

「簡単に言うけど、そうあっさりいく相手じゃないよ。でも俺、卒業したら結婚してもいいと思ってるんだ。」

「ええ!そこまで考えてるんだ。それなら産ませれば。」

「お前、どうしてそうオールタナティブに言う訳?」

正則が珍しく真面目な口調で言った。

「それは、所詮他人事だし、それに答えたって二つに一つしかないからだよ。」

純は、いつも正則にされているように冗談っぽく答えた。

「親友だろ。他人事みたいに言うのはよせよ。」

「冗談だよ。お前が最近、美樹、美樹ってうるさいから苛めたくなったんだ。でも真面目な話、残酷かもしれないけどおろした方がいいと思うよ。そりゃあ育てようと思えば育てられない事もないだろうけど、色々大変だし、子供が可愛そうだと思うよ。」

「俺もそう思う。でも、おろさせるんなら、婚約してって言うんだよ。でも婚約となると向こうの家族にもばれるし、頭痛いよ。」

「まあ、何となく自業自得という感じもするけど、何とかしなきゃな。」

「向こうの家族に受け入れられなかったらどうしよう…。」

「大丈夫だよ、お前なら絶対気に入られるよ。家の親父なんか久美子の旦那にしても良いって言ってた位なんだから…。」

「ええ!それ本当?」

「本当だよ。お前には何か、そういう得な所があるんだよ。」

「お前もそう思ってるのか?」

「まあな。」

「やっぱりお前は俺の親友だ。それを聞いて安心したよ。」

「何言ってんだよ。絶対大丈夫だって。」

純は褒められてすっかり良い気分になった。

「良かった、ところで頼みがあるんだよ。」

「何だよ、みずくさい。早く言えよ。」

「実は今、久美子と一緒なんだ。それで俺を安心させたように、久美子もうまく言って安心させて欲しいんだ。」

「ええ、そんないきなり困るよ。」

「頼むよ。」

正則はそう言って、強引に久美子と代わった。

「もしもし、お兄ちゃん…」

「あ、どうも…、あの…、この度は大変な事になったようで、でも彼は普段ふざけてるようでも、いざという時は頼りになる奴でして、ですから、安心して…、えっ!?今、何て言った?」

「お兄ちゃん!ありがとう、分かってくれて。久美子怖いの。だから、お兄ちゃん助けて!」

何と、電話に出たのは妹の久美子だった。

「お前、何やってるんだ!」

「ごめんね。実はあたし、正則とずーっと付き合ってたの。黙っててごめんね。」

純は、正則とのいきさつを聞いて驚いた。実はあのドライブ以来、正則の本命はずっと久美子で、もう一人の久美子は正則のカモフラージュ作戦だったのだ。まんまと作戦にはまった純は、ついに正則達と哲夫の仲介まで引受けさせられた。そして早速次の日、哲夫達に引き会わせた。純は哲夫が、正則と久美子をくっつけても良いと書いていたぐらいだから、あっさり認めるだろうと思っていた。そして案の定、最初に少しびっくりしたものの、最後には正則との交際を許した。芳恵はほとんど何も言わず、成り行きを見守っていた。純は、何かうまく乗せられたなと思いつつも、二人を祝福した。次の日、正則は久美子を連れて病院に行った。ところがその結果、想像妊娠だったというのだ。しかし純は、久美子の疲れた顔を見て、それが久美子が子供を中絶した事を皆に知られない為の最後の正則の思いやりであった事を薄々感づいていた。それからというもの、正則と久美子は、公認の仲なのをいい事にべったり。そして純はそのお陰で、益々真奈美が恋しくなっていった。

 純は、真奈美にとても会いたかったが、自分から冷却期間を置くと言った手前、電話しにくかった。仕方ないので、たまに一人で出掛けて二人でデートした思い出のデートコースを辿った。そして、渋谷のデートコースを歩いていた或る日…。

「あの時は楽しかったな。そう、確かここで宝くじを買ったんだ…。そう言えば、あの宝くじどうなったかな?」

純は、そう言って財布の奥にしまい込んだ宝くじを取り出した。そして、思い出の宝くじ売り場に貼り出されている当り番号を見た。

「どれどれ、***組の****、ちくしょー、やっぱり駄目だ。」

はずれていたのでがっかりして、くじを破ろうとした。

「いや、待てよ、一応、おばさんに見せよう。」

純は一応、売場のおばさんに見せる事にした。おばさんは、券を手に取ると、手際良くペラペラとめくり、赤鉛筆で次々とチェックした。ところが、突然ピタッとその手を止めた。

「どうですか?」

純が恐る恐る聞いた。

「お客さん、300万円当たっています。」

純は一瞬信じられなかった。

「本当に?」

「本当です。すぐあそこに、銀行がありますから換金してください。」

「やったあ!!」

純は当たった瞬間大声で喜んだが、慌てて口を塞ぎ辺りを見渡した。そして、周りの人が皆泥棒に見えたので急いて銀行へ走った。宝くじは無事確認された。純は、一等賞ではなかったけれど、300万円当たった事を早く皆に知らせたかった。しかし、その結果、100万円を車の返済金、100万円を貯金、その残りで皆におごる羽目になってしまった。哲夫、芳恵、久美子、そしてもうすっかり家族のつもりの正則。

「ああ、参ったな。もうこんなに減っちゃったよ。」

純は悲しそうに財布の中を覗いた。

「いいんだよ。不労所得で得たお金なんてぱあっと使うに限るよ。」

正則が後ろから覗き込むように言った。

「自分の為にぱあっと使うならいいけどね。」

純は、一番多く食べた正則に恨みを込めてそう言った。そして、今度宝くじに当たった時は、もう誰にも言うのはよそうと思った。

しかし、純にはどうしても教えたい人があと一人いた。真奈美である。

純は家に帰って、早速電話をした。

「真奈美?俺、純だよ。元気だった?」

「どうしたの?ついこの間冷却期間を置こうと言っていたのに…」

「いや、それがそれどころじゃないの、当たったんだよ!あれが。」

「何が?」

「宝くじだよ!ほら、前一緒にデートした時に買ったじゃない。」

「ええ、本当!凄いじゃない!」

「だからさ、約束通りおごってあげようと思って。」

「あれは冗談で言ったんだからいいわよ。自分の為に使いなさい。」

「正則とか、皆はハイエナのようにおごってくれと言うのに…、お前はなんていい奴なんだ。ますます惚れたよ。」

「何言ってるのよ。あたしをいい風に見てるだけよ。それより、美樹ちゃんにはもう教えてあげたの?」

「もう、その話題は勘弁してくれよ。俺が本当に好きなのはお前だけだよ。信じてくれよ。」

純は悲痛な声を出して言った。

「分かったわ。」

純は、宝くじの話題で仲直りのきっかけをつかみ、次の日曜日にデートの約束をした。

そこで早速、部屋に戻って面白いデートコースを探す事にした。ところが、雑誌をペラペラめくっているとある新人作家の記事が目に入った。

「新人作家ね。正則が前に言っていた様に、親父の果たせなかった夢を俺が果たそうかな・・・」

そんな考えが純の頭に浮かんだ。ところがそれが引き金となって、とんでもない記憶までもが純の頭の中に蘇った。

「宝くじに当たる?どっかで聞いた事あると思ったら、俺が親父のシナリオに書き加えた筋書きじゃないか!」

何と!車の鍵の事で哲夫の書斎に忍び込んだ時に、シナリオに書き加えた筋書きが、実際に自分に起こってしまったのだ。

「どういう事だろう?あの一件ですっかり終わったつもりになっていたのに…。こればかりは、お袋のネットワークを持ってしても説明がつかないぜ。しかし、俺が書いた事が起こるのはどういう事だろう。親父の超能力ではなく、あのシナリオが書かれる事によって何かが起こるという事になるな。それとも、俺にもその能力があるのか?そんな訳ないな。それならば、書いてないにしろ、いつも頭の中で何か望んでるんだから人生もっと楽しい筈だ。それとも俺は、何万年に一回の偶然に出会っているのだろうか?これはもう一回、あのノートを見てみるしかないな…。」

純はそう言うとベッドの裏側に隠しておいたノートを取り出し、改めてじっくり読んでみた。そして、驚くべき事に気がついた。それは、正則と久美子の事、そして美樹の事も、結局考えてみると、このノートに書かれている方向に向こうとしていたからだ。

―親父め…。あの時あんなにもめたのに、なぜしつこくこのシナリオ通りに事を進めようとするのだろう?

純は不思議に思った。

―お袋はあれ以来何でもオープンに話をするし、親父だって作品を見せてくれる様になった。その作品の内容だって、特に予言として起こってないし。でも待てよ!?確かあの時は「何故予言が起こるのか?」として聞いたのではなく、「何故僕らのプライバシーを知っているのか?」について、問い詰めたんだ。そうか!親父は俺がこのノートのコピーを持っている事をまだ知らないんだ!だから、何も知らず、今だに全てを予言通りに動かそうとしてるんだ。いつも僕らに見せてる作品はダミーかもしれない。しかしそれにしても、どうやって予言通りに動かすのだろう?いや、待てよ?宝くじも親父の動かしている事なら、親父は書き換えた事に気付く筈だ。なのに、気付いていない。という事は親父のシナリオを、どうやってかは分らないが、他の誰かが動かしている事になる。それにもう一つ、宝くじが当たった事について、もしも僕の人生が100パーセント親父の予言によって決められている事ならば、自分の予言に無い事だから、それも驚く筈だ。それを驚かないという事は、全てが予言通りに起こると思っていないと同時に、予言は部分的なものとしてしか行われないという事だ。しかし、これだけ考えてもなお僕の中には明確な答えが出ない。どうすればいいんだろう?これもみんなただの誇大妄想なのだろうか?ああ、謎はまた振り出しに戻ってしまった。

純はそう言うと、ベッドの上で頭を抱え込んだ。

 純は宝くじの事件以来、再び哲夫のシナリオに関して疑問を持つ様になっていたが、答えは出ないままであった。再び哲夫を問い詰めるにしても、もしかしたら以前の様に自分のとんでもない勘違いかもしれないので、やめておいた。すっかり行き詰った純は、どうしても信用できる第三者の客観的意見が欲しかった。

そこで、思い切って真奈美に相談してみる事にした。

 次の日曜日、純は真奈美を渋谷に呼び出した。最初は何も言わずにお茶を飲んだり、買い物をしたり普通通りにしていたが、頭の中は、どうやってこのとっぴな話を切り出したらいいかで一杯であった。しかし、いくら考えてもいいきっかけが見つからないので、夕方になった恐る恐るその話を切り出した。

「真奈美、変な事聞いていい?」

純は、顔色を伺うように言った。

「どんな事?」

「世の中、不思議な事って一杯あるよね。例えば、超能力とか、UFOとかあるけど、そういうの信じる?」

「わっ!面白そう。」

真奈美は、純の気持ちも知らずに無邪気に言った。

「そうか、じゃ、こういう話どう思う?」

純はそう言うと、哲夫の作品が予言の様に当たってしまう事などを、まるで他の人の怪奇話の様にして言った。最初は面白がって聞いていた真奈美も、何故かだんだん表情が硬くなっていった。

「それ、本当の話?」

「本当だったら信じる?」

純は反応を伺いながら慎重に言い回した。

「もしかしてそれ、自分の事じゃないの?」

真奈美が鋭く聞いた。

「どうしてそう思うの?じゃあ、もしどうだとしたら、信じる?」

「普通は信じないと思うわ。でも、大好きな純の言う事だから、私は信じてあげる。でも、本当は何処で聞いた話なの?」

「本当は、俺の事なんだ。」

「ええ!どういう事?」

純は、一部始終をさらに詳しく説明した。そして、美樹とのいざこざの事も、実は哲夫がシナリオに書いていたから、その影響を受けて起こったのだと言った。真奈美はびっくりしたような、困惑したような表情をした。」

「なあ、これってどういう事だと思う?」

純はそう言いながら、真剣に考え込む真奈美の姿を見て、やっと信じてもらえたと思った。

「良く分らないけど…、最初の話は、貴方のお母さんが言った通り、友達のお母さんから洩れていったのだと思うわ。だから、予言じゃないという事なんだけど…。そしてその後の話は、貴方が前にそういう疑いを持った事があるから、それに引きずられて、そう見える様になっていると思うの。そして、妹さんの事は、全く自然に起こり、それが、たまたま親の鋭い勘で書かれた作品に一致しただけだと思うの。親というのは思っている以上に子供の事を良く分かっているから、そういう勘も冴えると思うわ。それから宝くじの事もまったく偶然で、シナリオとは無関係。貴方の運が良かっただけの事。そしてその運が良すぎた分、逆に貴方に運悪く疑いをもたらす様にしたんだと思うわ。それこそある意味で神のいたずらとでも言えるかもしれないわ。とにかく、今の貴方は、一回そういう偏見を持ってしまった為に、全てそう見える様になってるだけだと思うの。だってこのあたしだって初めて聞いたというのに、もっと現実的な説明が出来るでしょう。貴方の考えはとっぴすぎるわ。そうだ!逆にそれを活かして、面白い話を書いて、お父さんの夢を貴方が果たしてあげるのも良いかもしれないわ。そうよ、そうしなさいよ!」

純は、真奈美が正則と同じ事を言ったので驚いた。

「そうか?そんなに現実的じゃないか?お前だって勘とか運とか、しまいには神のいたずらとか、非現実的な事を言ってるじゃないか。」

「とにかく、その偏見みたいなものを取り去らないといけないわ。そうでないと、これからも色んなものがそう見える様になってしまうわ。あたしを信じて、その考えを直して。そうだわ、そんな事しなくても、これからもそんな偶然が続く筈ないから、しばらく様子を見ましょう。そうすれば、それがただの思い込みだって事が分かると思うわ。そうよ、それでも変な事が起きたら、あたしも一緒になって信じてあげる。ねっ。今までのは本当に偶然の事。それに疑いを持たせる様な行動をした、貴方のご両親にも悪いところがあったかもしれないけど、それもきっと貴方の為を思っての事だと思うから怒っちゃ駄目よ。とにかく、しばらく様子を見ましょう、ねっ。」

―自分の持っている偏見か…。

純は、真奈美の話がすごく分かり易く納得できたので、相談して良かったと思った。そして、やっとこの不思議な現象から抜けられると希望を持った。

そして、早速次の日から、真奈美のいう通りに偏見を捨てる様に努力した。するとどうだろう。今までの事がまるで嘘の様に、全ての事が父のシナリオとは無関係に動き始めた。

「全ては自分の偏見が生んだ妄想にすぎなかったのか。」

純は自分の心にどんよりかかっていた黒い雲が徐々に晴れ上がり、太陽を覗かせ始めたような気分になり始めた。しかし、残念ながらそれも長くは続かなかった。

 それからしばらくした或る日、心のもやをすっかり取り去る事に成功した純は、一人で気持ち良くドライブに出かける事にした。そこで都内のレコードショップに寄ったり、雑誌に載っていた新しい店を見たり、街行く人のファッションを見たりした。そして車の中で、今度のデートコースやファッションについて考えていた。ところが、そうやってしばらく走っていると、哲夫の会社の近くを通りかかった。純は、前を通ってみようと思い、信号を曲がった。すると、会社の前は渋滞していてなかなか進まなかった。

「ちぇっ、相変わらず混んでるな。」

純は、「失敗したかな?」と思いながら前の方を見た。すると、哲夫の会社まであともう少し、という時に駐車場から一台の白い車が出てきた。

「親父の車だ!しかも誰か若い女を乗せてる。」

純は、タイミング良く出てきた哲夫の車を見て驚いた。若い女を乗せた哲夫の車は、右に曲がって反対車線を走り、純の車の横をゆっくり通り過ぎて行った。哲夫達は最後まで純に気が付かなかったが、純は、横にいる若い女のまでハッキリと見てしまった。

「まさか、こんな事が!?」

純は声を震わせた。というのも、横に乗っていたのは、何と真奈美だったからだ。純は後を追おうと、急いで車を転回させたが、渋滞していてうまくいかず、見失ってしまった。

「親父と真奈美が繋がっているなんて、どういう事だろう?」

純は、一番信頼していた真奈美が哲夫と一緒にいた事で、頭の中がすっかりバラバラになってしまった。」

「そうか!最近何も起こらないと思ったのは、きっと真奈美があのノートの事をばらしたからだ。だから親父もシナリオの内容を変えたんだ。いや待てよ?もしかしたら、また偏見で見ているのかもしれない。偶然何処かで会って、たまたま話をしたのかもしれない。そうだな、結論は真奈美と話をしてから出そう。」

純はそう言うと、車を止めて、まず真奈美の家に電話してみる事にした。

―これで奴が家にいれば、俺の勘違いなんだけどな。

純は祈った。しかし、やはり真奈美は家にはいなかった。見間違いではない事を確信した純は、家に戻る事にした。そしてその夜、真奈美から電話があった。

―もし哲夫と偶然会ったのなら、その話を真っ先にする筈だ。

電話を取ると純はそう思った。しかし、真奈美はそれらしい話を一切しなかった。不思議に思った純は、思い切って聞いてみる事にした。

「ところで、今日どこへ行ってたんだ?」

「どうしたの?急にそんな刑事さんみたいな言い方して…。」

純は、内心興奮していたので、思わずきつい口調で聞いてしまった。

「いや、実は今日お前に似た子を見かけたから…。」

「ええ、何処で?」

「原宿あたりを車で走ってたら見たんだよ。たしか、四時半ごろだったな。」

純は、真奈美を会社で見かけたのと同じ時間を、全く違く場所で言ってみた。

「原宿で?人違いじゃないの?」

「いや、絶対お前だ。だって、俺と会う時着てたお気に入りの青い服着てたもん。」

真奈美は、その日着てた服をずばり当てられたのでびっくりした。

「確かにその服を着てたわ。でもおかしいわ?原宿には行ってないもの。」

「だから、どこへ行ったのかって聞いてるんじゃないか。」

「ええと、四時頃ね。お友達と会ってたわ。」

「どこで?」

「何でそんな事いちいち言わなければいけないの?」

「それは、君がお友達とでは無く、お友達のお父さんと会っていたからだよ。」

「どうしてそれを!」

真奈美は一瞬声を詰まらせたが、すぐさま言い返した。

「何言ってるの?またおかしな事を言って…。」

「おかしな事かな。今一瞬認めかけたじゃないか。それに現に君の着てた服装を当てているだろう。それはどう説明するんだ?」

「分かったわ…。それは貴方の言う通りよ。でも偶然会ったのよ。本当よ。それで、ちょっとお茶をご馳走になっただけなの。なんか貴方のお父さんに会って、それで図々しくおごられるような子だと思われたくなかったの。だから、黙ってたの。」

「そんな事思うなんておかしいよ。だって仮にお前がそう思っても、うちの親父は、俺に言う筈だろ。「愛人だ」とでもいう、やましい気持ちがあるなら別だけど…。お前にしちゃあ、随分いい加減ないい訳だな。よっぽど動揺してるんだな。」

「とにかくそう思ったのよ!それは事実なんだから仕方ないじゃないの。これ以上説明してと言われても困るわ。貴方、まだ妄想から抜けられないのね。もう、お願いだから普通に考えて、そして冷静になったら、それからまた電話ちょうだい。冷静になればきっと普通の説明に納得出来るから。それじゃ切るわよ。」

「おい、待てよ。」

真奈美はそう言って、一方的に電話を切った。

―本当に自分の妄想なのだろうか…?

純は悩んだ。確かに全てを偶然の事と考えられなくはない。しかし、そうでないと考える方がどう考えてもまともである。

純は、愛する真奈美に裏切られ、もう誰も信じられなくなっていた。

そして、誰にでも否定される自分すら信じられなくなっていた。

 純は哲夫に、真奈美との事を強引に聞く事も出来たが、多分無駄だろうと思い、やめておいた。自分を支える確かなものを全て失った純は、近くの飲み屋に行って一人で考え込むようになった。とにかく純は考えた。人間は、脳の50パーセントしか使っていないと言われるが、それを遙かに上回るぐらい考えた。

「今、僕に起こっている事は非現実的な事、だから現実的な範疇で説明しようとする事自体が無理な事。しかし、現にこうして起こっているという事は、ある意味で現実的な事だという事だから、それが何故、非現実的なのかという事が問題になるな…。そうか!要するに、説明してはいけない事なのか。では何故、説明してはいけないのだろうか?分らない…。まあ、どっちにしろ、俺にとって説明する事に何の意味があるのだろう?いくら説明しても、結局「嘘」という消しゴムで真実を消されるだけだからな。」

純は、死ぬほど考えたが、やはり答えを見つける事が出来なかった。考え疲れた純は、呆然と周りを見回した。そして、普段と何も変わらない雰囲気で飲んでいる周りの人達を羨ましく思った。

「大体、今の若い奴は皆、親の気持ちが分かっていない!!」

純は、隣の客の大声で我に帰った。ふと見ると、五十代半ばの男が二人、大きな声で口論していた。その、周りの迷惑などお構いなしに口論する二人の大声は、嫌でも純の耳に入ってきた。

「戦争の焼け跡から、ワシ達がどういう気持ちで子供達の為に一生懸命働いて、日本を立て直したのか、今の若い奴等は、全然分かっていない!まるで、生まれた時から何でもあるのを当然の事と思っている。ずっとワシ達が影から見守って、将来の事まで考えてやっているのに、全然感謝していない!」

「げんさん、それを今の若い者に分かれというのは無理ですよ。彼等は皆、目の前の価値でしか物事を判断出来ませんから…」

もう一人の男が、酒を勧めながらなだめる様に言った。しかし、「げんさん」とか呼ばれている男の方は、まだ言い足りないらしく、苛々した表情でコップの日本酒を一気飲みすると、再び喋り始めた。

「そんなものは言い訳にはならん!まったく、口ばかり達者で無機質な若者が、将来ワシ達の面倒をちゃんと見れるのか、心配でしょうがないよ。大体、年寄りを馬鹿にする風潮が許せん。もっと感謝し、敬い、神様の様に扱うべきなんだ!」

「そうですね、でも大丈夫ですよ。きっと、そうなりますよ…」

相手方の方が、純の方をチラチラ気にしながら言った。

「当り前だ!そうならなくちゃいかんよ。おい、若いの聞いてるのか。ワシらはな、お前達の神様なんだぞ。お前ら若者はな、ごちゃごちゃ余計な事考えずに、黙って神様の言う事を聞けばいいんだ。分かってるのか?」

その、「げんさん」と呼ばれているおじさんは、突然純の方に振り向いて言った。

「は、はい!?」

驚いた純は、「危ない奴だな」と思いながら適当に返事をした。

「おい!ところでお前、結婚はしてるのか?」

げんさんは、そのでっかい顔をアホな首ふり人形の様に揺らしながら続けて聞いた。

「いいえ。」

「何だよ。だからけつが青いって言うんだよ。結婚して、子供を産んで、育てて、そこで初めて大人だって言えるんだよ。そこで初めて親の気持ちも分かるんだよ。お前は分かったつもりでいるだろうが、わかっちゃいないのさ。それを分かるには大人になるしかないのよ。とにかく、早く結婚して、子供作って、親を安心させろ。そうすれば、お前も大人の仲間入りだ。ガハハハ…。でも、神様になるにはまだまだだけどな。分かったな!」

「は、はい。」

純は、げんさんの言っている事がよく分らなかったが、とにかく面倒くさいので素直に返事をしておいた。

「よおし、それでいいんだ。思ったより素直な奴じゃないか。親父によろしくと言っといてくれよな。兄さん、勘定してくれ!」

げんさんは、好きなだけ説教して満足したのか、勘定を払って機嫌よく出て行った。

純は、その姿が消えるのを確認してから、呟いた。

「何が感謝しろだ。自分達が戦争で壊した物を修理して子供に渡しただけじゃないか…」

純は、一番嫌いな、「大人になれば分かる」という言葉を言われて腹を立てた。そして、目の前のチューハイを一気に飲み干し、さっさと店を出た。

 家に帰ると、哲夫がテレビを見ながらゴルフクラブを磨いていた。一方、芳恵と久美子は台所の方で、何やら家事をしていた。純は、みんなを無視してそのまま自分の部屋に行こうとしたが、哲夫に呼び止められた…。

「純、今日も飲みに行ってたのか?」

純は立ち止ったものの、返事をしなかった。

「あんまり飲むと体に悪いぞ。それから、最近余り学校に行ってないそうだな。正則君が心配して電話してきたぞ。どうしたんだ?」

純は、「どうしたんだ?」なんて他人事に様に聞く哲夫を一瞬睨んでから、黙って二階へ上がって行った。それを見た哲夫は渋い顔で再びゴルフ道具を磨き始めた。

「お兄ちゃん、最近どうしちゃったのかな?彼女とも会ってないみたい。」

二人の様子を見ていたらしく、久美子が台所の方から出てきて言った。

「このままじゃ、留年してしまうかもしれないわ。あなた、何とかしてくださいよ。」

その後ろから、芳恵が出てきて言った。哲夫は、ゴルフクラブを磨くのを止めて、黙ったまま煙草に火を付けた。

純の閉鎖的な態度はそれからも続いた。

―親父が本当の事を言わないからだ。

純はそう思いながら、哲夫のシナリオに抵抗した。大学のサボり癖は益々酷くなり、ついに試験も受けなかった。その為、留年する事が決定し、芳恵はすっかり落ち込んでしまった。それをみた哲夫は、ついに純と話し合う決心をした。

そして或る日、哲夫は純の部屋に行った。

「純、どうしたんだ?最近元気ないし、おかしいぞ。留年の事なら気にするな。男なんて社会に出てからが勝負なんだからな。それに父さんだって、実は大学に入るのに二浪もしてるんだ。そんなもの比べれば、一年位どうという事はないよ。でも、恥ずかしいからこの事は久美子とかには内緒にしてくれよ。」

哲夫はウィンクしながら純に言った。しかし、純は相変わらず黙ったままだった。

「どうしたんだ?返事ぐらいしてもいいだろう。それとも他の事で悩んでいるのか?」

そう言うと、純が一瞬哲夫の方を見た。

「そうか、分かった、彼女の事だな。父さんで良ければ聞いてあげるぞ。」

哲夫はそう言って、純の肩に軽く手を掛けた。しかし、純をそれを振りほどき黙って立ち去ろうとした。

「純、ちょっと待ってくれ!」

哲夫は呼び止めようとしたが、純はそれを無視した。

「純、分かった、父さんの負けだ!お前が何を悩んでいるか、分かっているよ。」

純はビクッと肩を震わせると、その場に立ち止まった。そして、黙って哲夫の方を振り返った。

「どうしても知りたいのか?」

哲夫が目をカッと開いて聞くと、純は黙ってコックリと頷いた。

「本当に、どうしても知りたいんだな。」

哲夫が念を押すように言うと、黙ってコックリコックリ頷いた。

「父さんが死ぬ、と言っても聞きたいか?」

純は、「死ぬ」なんて随分子供じみた脅かし方をするな、と思いながらコックリコックリコックリと強く頷いた。

「明日の夜も例の店に飲みに行くのか?」

「多分…」

「じゃあ、その時に二人だけで話がしたいんだが、それで良いか?」

純は、今すぐ聞きたかったので、しばらく考え込んだまま黙っていた。

「じゃあ、明日必ず行くから、先に行って待っててくれ。多分、八時頃になると思う。分かったな?」

哲夫は、諦めきったような、疲れた目をして悲しそうに純に言った。

「分かった。」

純は、やっと哲夫から何か聞き出せると思ったが、この一瞬で十年年をとったような、疲れ果てた哲夫の顔を見て、何かとても悲しい気持ちになった。しかし、この先、一生何も知らずに生きる訳にはいかないと思ったので、しようがないと思った。哲夫が部屋からすごすご出て行くと、純もそのままおとなしく寝た。

 次の日純は、少し早めに行って飲む事にした。家にいると時間が経つのがとても遅く感じられるからだ。お店に着くと、平日だというのにいつもより混んでいてうるさかった。純は、二人の話し合いがし易いような、隅っこの場所を探すとそこに座った。そしてチューハイと本日のおすすめ品を頼み、持ってきた雑誌をペラペラとめくって時間を潰した。チューハイが三杯目に差し掛かる頃、純は時計を見た。約束の時間までもうすぐであった。

ガシャーン★!!

突然大きな音がした。

「交通事故だ!」

外で誰かが叫ぶ声がした。それを聞いて店のお客さん達が騒ぎ始めた。現場はかなり近いらしく、外を見ると、一定方向に人がどんどん走って行った。それを見てついに、隣の人が我慢できなくなって外に飛び出した。そして純も、それにつられて店を出た。

かなりひどい事故らしく、凄い人だかりになっていた。

「あれじゃあ、もう助からないな…。」

人身事故らしく、そんな声があちこちから聞こえた。純は、現場を何とか一目見ようと、人垣をかき分けて、一番前に出た。するとそこには、ヘッドライトが粉々に割れた車、血を出して倒れている男、加害者らしき男、そして警察官が数人立っていた。確かに酷い有様であった。その生々しく流れる血を見て呆然としていると、間もなく救急車がやってきた。純は、気持が悪いと思いつつも、さらにどれ位ひどい状態か見ようと、恐る恐る近付いた。その時、駆け付けた救急隊員が被害者をそおっと仰向けにした。

「うわー★!☆!」

被害者の顔を見た途端、純は狂った様に泣き叫んだ。周りの人達は、驚いて純の方を見た。

「親父!親父!」

純は、半狂乱になってそばに走り寄り、信じられない様子でその血だらけの顔を手で拭いた。確かに哲夫であった。純は、救急隊員に引き離されると、一緒に救急車に乗って病院に行った。しばらくして、芳恵と久美子、そして正則が駆けつけてきたが、哲夫は危篤状態ですでに手術室に入っていた。みんなはあまりのショックで口もきかず、手術がうまくいくことを黙って祈っていた。それから何時間かたって、手術が終わった。深刻な顔をして手術室から出てきた執刀医を、芳恵がすがるように見た。しかし、彼は芳恵に向って静かに頭を横に振った。

「嘘だわ!嘘よ!」

芳恵は執刀医の白衣を掴みながら、その場に泣き崩れた。

「お兄ちゃんのせいだ!お兄ちゃんに会いに出て行ったからよ!」

久美子は、持っていた荷物を思いっきり投げつけると、その場を走り去った。

正則は、それを呆然と見送る純の肩を黙って叩くと、久美子の後を追った。

―本当に俺のせいでああなあったのかな?

久美子の言葉が、純を責め立てるように頭の中をこだました…。

―そう言えば昨日、確かに「父さんが死んでも聞きたいのか」って聞いてた。という事は、やっぱり親父は殺されたのか!ああ…、俺は何ていう事を親父に要求したんだ。親父、許してくれ…。しかい、一体何の為に殺されたんだ?親父が話そうとしていた事は、そんなに大変な事だったのだろうか?そんな馬鹿な事があるか!こんな平凡な家庭に、一体何があるというのだ?俺の抱いた疑問に、人を殺すような事が何処にあるというのだ!これこそ、あり得ない。しかし現に親父は、話をする前に死んでいる。分からない…。一体、真実は何なんだ!俺は一体どうすればいいんだ!?親父、頼む助けてくれ。…。

純は、人に言えぬ悩みを抱え込んでその場に泣き崩れた。

数日後、哲夫の葬式がしめやかに行われた。純は、喪主であったが、自分が殺したかもしれない罪の意識にさいなまれながら、皆に会わなければいかなかったので、とても辛かった。そのせいか、久美子を含め、皆の目が純の事を責め立てている様にも見えた。純は、辛いのでうつむいてなるべくみんなを見ない様にした。そうしている内に、お経をあげるお坊さんが来た。

しかし、純はそのお坊さんに会って驚いた。というのも、何と真奈美を一緒に連れていたからだ。

「真奈美!お前、どうしたんだ。葬式のコンパニオンでもやってるのか?」

「実は家の父なの。それに、貴方のお父さんの事だから、来るのは当然だわ。」

真奈美はそう言うと、お坊さんと一緒に奥の方へ入っていった。純は動揺しながらその後を追った。

―真奈美の親父がお坊さん?それにしても、真奈美の親父が来るというのも偶然なのだろうか?

純はそんな事を考えながらお経を聞いていた。真奈美の方を見ると、黙って目をつぶっていた。

今日が済むと、しばらくして真奈美が純のところにやって来た。

「何故、よりによってあたしと、お父さんが来たのだろう、と思っているんでしょ。家のお父さん、貴方のお父さんの事をずっと前から知っていたらしいわ。あたしも昨日初めて聞いて驚いたの。こんな事言うと、もっと不思議に思うわよね。こんな偶然ってあるのかなって…。」

純はどう言っていいのか分からず、黙って聞いていた。

「でもあるのよ。偶然が…。貴方のお父さんの事はとても気の毒な事だったわ。本当にどう言ったら良いのか分からない。でもね純、貴方のお父さんが貴方の事をどんなに思っていたかをよく考えて、これからは普通に生きて頂戴ね。私にできる事なら何でも協力するから。」

「親父がなぜ死ななければいけなかったのか、教えてくれ。」

純は震えながら聞いた。

「純!お願いだから、もう止めて。お願いだから…」

真奈美は、目に涙を溜めながら純の体を揺すった。

「愛してるわ。」

そしてそう言うと、純の頬にキスをして、走り去って行った。純は、自分の頬について真奈美の涙が、自分のと混じるのを感じた。

 哲夫が死んでからというもの、芳恵はすっかり落ち込んだ。久美子の方も相変わらず純の事を逆恨みしている様で、態度が冷たかった。純は、哲夫が居なくなってすっかり静まり返った家をどうしていいか分からなかった。

―親父の死と、僕が聞き出そうとした事は関係あるのだろうか?それと真奈美の親父と家の親父の関係は偶然だったのだろうか?

次の日、純は真奈美に会う事にした。傷んだ心を癒せるのは真奈美以外にいないし、哲夫の死の謎についても相談したかったからだ。

「君がお坊さんの娘なんて知らなかったから、本当にびっくりしたよ。」

純が真奈美にそう言った。

「そう…」

真奈美は、どうでもよいといった気のない返事をした。

「それに君のお父さんが家の親父と知り合いだったという事も凄い偶然だったね。」

「そうね。」

「こんな事を言うとまた怒るかもしれないが、君と僕の出会いっていうのも、もしかしたら…」

「お父さんが仕組んだ事に思えると言うんでしょ。そうね、偶然がこう重なると、そう思えるのもしょうがないかもね。でも私にはもう、どう答えていいか分からないの。だって本当に本当、何の関係も無いんだもの。」

「そうか…。」

純は、これ以上言っても無駄だなと思った。そして、窓の外をぼんやりと見た。

―どんな事も偶然と言えばあり得ない事はない。やはり、俺の思い過ごしなのだろうか?それに、もし事実だとしても、もう親父がいないんだから、聞き出しようがないしな。そうだよ、今はもう親父はいないんだよ…。ちょっと待てよ!?親父が俺の人生を操っていたのなら、死んだ後はどうなるというのだろう。誰も操ったり、予言して決定したり出来ない筈だ。すると俺は、全く見当違いな疑いを持っていたという事か!?そうだよ。俺はやはり俺自身で人生を生きていたんだ!でもそうすると、親父はあの日何を言おうとしたのだろう?きっと普通にアドバイスをしようとしたのだろう。もっと早く気付いて、親父にもっと優しくしてやれば良かった。

純はやっと自分の中で納得する答えを掴んだ。

純は真奈美を連れて喫茶店を出た。そして街を無言で歩きながら自分の考えを整理した。

「あっ!」

純は突然そう叫んで、前の方を指差した。

「どうしたの?」

前の方を見ると、三十前後の男がポケットに手を突っ込みながらブラブラ歩いていた。

「何故あいつがこんな所にいるんだ!?」

「誰なの?」

「親父を引き殺した男だよ!監獄にいる筈なのに、一体どういう事なんだ?」

「人違いよ。」

真奈美は、純がまたおかしな事を言い始めたと思って、慌てて腕を引っ張って別の方向へ連れて行こうとした。

「絶対あいつだ。とっ捕まえてやる!」

純はそう言うと、真奈美の手を振りほどいて男の方へ走って行った。

「待って!」

真奈美がそう叫ぶと、男は騒ぎに気付いて純達の方を見た。そして、純の事に気付くと慌てて逃げ出した。

「やっぱりあいつだ!」

純は必死になって後を追ったが、その男は人混みの中を巧みに逃げた。純はなかなか追いつけないので、通行人に取り押さえるよう叫んだ。しかし、突然の出来事に誰も関わりを持ちたくない様であった。それどころか、大きな声を張り上げて人混みの中を走る純を止めて、なだめようとする者がいた。そうこうしている内に、大きな交差点に差し掛かり、信号が黄色から赤に変わった。男は一瞬ためらっていたが、どんどん追いついてくる純を見て強引に渡り始めた。純もその後を追った。信号の中の二人に、車がけたたましくクラクションを鳴らした。

「そこの二人!こっちへ来なさい!」

その騒ぎを見て、反対側にあった交番からお巡りさん達が三人飛び出してきた。してその内の一人が男を取り押さえると、もう二人が純を取り押さえた。

「お巡りさん!あいつを捕まえてください!」

「分かった、分かった。話は交番で聞こう。」

お巡りさんはそう言いながら、純を交番の方へ引っ張っていった。純は心配になって男の方を見た。すると驚いた事に、交番のお巡りさんが、その男を逃がしているのが見えた。

「ちくしょー、これは一体どういう事なんだ!」

純は、発狂したように暴れて、お巡りさんの腕を振りほどいた。そして、再び男を追いかけはじめた。それを見てお巡りさん達も慌てて後を追った。

「待て!」

しかし、そう叫びながら男に追いつき始めた時、人混みの中の誰かが純を道路の方に突き飛ばした。

「うわー!」

突然道路の真ん中に飛び出した純は、走ってきた車に跳ねられた。

「馬鹿な奴だ。」

「助からないな。」

道路に倒れ、意識が朦朧とした純は、そんな話し声を微かに聞いた。

「純、大丈夫!?しっかりして!どうしたのみんな?誰か早く救急車を呼んで!」

純は必死に叫ぶ真奈美の声を聞いて安心したのか、気を失った。

「ここは何処だ?」

目を覚ました純が、上半身を起こそうとしながら言った。

「病院よ。」

ベッドの横にいる真奈美が言った。周りを見渡すと、芳恵や久美子、正則も来ていた。

「随分派手にやったな。右足骨折だぞ。」

正則がニッコリ笑いながら言った。

「本当かよ。」

純は慌てて自分の足の方を見た。すると正則の言う通り、右足にはしっかりとギブスがはめられていた。

「そうだ!お袋、親父を轢いた犯人が街にいたんだよ!」

「真奈美さんから聞いたわ。でも安心して、それは純の勘違いだったのよ。だって、警察に問い合わせたら、ちゃんと服役しているって言っていたわ。」

純は、芳恵の話を納得できない様子であった。

「そんな筈ないよ!俺、ちゃんと見たんだってば!親父を殺した奴の顔を間違える訳ないだろう!それに、それなら何でそいつは逃げる必要があったんだ?」

純はむきになって言った。

「そんな事言ったって私には分らないわ。だって警察の方がそう言っていたんだもの。」

「お兄ちゃん、打ちどころ悪かったんじゃないの?」

「うるせえ!」

久美子の憎たらしい言葉に、純は益々イライラした。

「そろそろ面会時間が終わりますよ。」

大声を聞いたのか、看護婦がドアを開けて心配そうに言った。

「純、明日も来るから、何か欲しい物があったら言って頂戴。」

純は何となく歯切れが悪かったが、この場でいくら騒いでもしょうがないと思い、機嫌を直す事にした。

「じゃあ、俺の部屋にあるウォークマンとカセットを持ってきてくれる?」

「分かったわ。」

「俺も来れたら来るよ。」

正則は、お見舞いの品のミカンを一つポケットにしまい込みながら言った。

「真奈美は?」

甘えた声で真奈美に言う純に、皆は気を利かして部屋から出て行った。

「もちろん来るわ。」

真奈美は、純の手を握り締めて言った。

「お前は信じてくれるだろう。あいつが親父を轢いた犯人だって事。ちくしょー、退院したら突き止めてやる。」

「分かったわ。あたしも協力してしげる。だから、それ迄、余計な事は考えないで大人しくしてて頂戴ね。」

真奈美は子供をあやす様にそう言うと、純のほっぺにキスをして出て言った。

皆が去った病室はシーンと静まり返った。それからしばらくして消灯時間になったが、純はしばらく寝付けなかった。

「いて!足が少し痛むな。それにしてもあの男、なんで街に出ていたんだろう?それに警察の方も何でお袋に嘘をつくんだろう?そう言えば、俺が追っていた時も警察はあの男を逃がしたな。どういう事なんだろう?まあいいや。真奈美の言う通り、おとなしくして早く治さなくっちゃな。でも、退院したら、必ず突き止めてやる。親父、見ててくれ、親父を殺した奴を決して野放しにはしないからね!」

純は、涙を流しながら固く誓った。そして、その涙は間もなく純を眠りにつかせた。

「純、私だ。」

真夜中、まるで夢の中から語り掛けるような声がした。

「純、私だ。」

その声は何度も純のことを読んだ。

「誰?」

声に気付いた純は、眠気まなこを擦りながら暗闇の中を見た。

「私だ、哲夫だ。」

「哲夫?」

純は一瞬考え込んでから飛び起きた。

「親父!」

何とそこには、死んだはずの哲夫が立っていた。

「親父、何でここにいるんだよ!?」

純は幽霊じゃないかと思って足元を見たが、ちゃんと二本足で立っていた。

「驚くのも無理はない。しかし、お前の事がどうしても心配であの世から来たんだよ。」

「あの世だって!?じゃあやっぱり幽霊なの?」

「たぶん説明しても分らないだろうから、そんなものだと思ってくれ。それより、何だその怪我は…。あまり無茶しちゃいけないぞ。」

哲夫は純の足を心配そうに見た。

「だって、親父を轢いて捕まっている筈の犯人が、平然と街を歩いていたんだ。だから捕まえようとしたんだ。でも不思議な事に、警察がそいつの事を逃がしちゃうんだ。もっと不思議なのが、お袋が警察に聞きに行っても、ちゃんと監獄に入ってるってい言うんだ。親父、これ一体どういう事なんだよ?親父は生きてここにいるし、警察は嘘をつく。一体どうなってんだよ?それと、親父、あの晩、俺に何を言おうとしたんだよ?頼むよ、教えてくれよ。」

純はそう言いながら取り乱し始めた。

「こら、そんな大きな声をだしちゃ駄目だよ。誰か起きたら困るだろ…。」

哲夫がやさしい口調で言った。

「そんな事言ったって、俺、何が何だか分からないよ。」

「分かってるよ。だからこうしてお前に会いに来たんだ。ここに来るのは大変だったんだぞ。」

哲夫はそう言いながら、近くにある椅子をベッドの横まで引いてゆっくり座った。そして、純の手の上に自分の手をそっと置いた。

「今日はね、お前の聞きたい事を全部答えに来たんだぞ。時間は一杯あるから、そう慌てないで落ち着いて。」

純は、哲夫の手に確かな実感があったので驚いた。

「親父、幽霊じゃない!?生きてるじゃない。生きてるのにどうして帰ってこないの?どうしてあの時は死んでたの?」

「ふー、それは一番説明が難しいから最後にするよ。それより、あの日聞きたかった事から答えてあげるよ。」

「あの日?そうだ。親父のシナリオの事でしょ。」

純はいったん納得したつもりでいたので、哲夫が自分からその話を持ち出した事に少し驚きを感じた。しかし、どんな事を言うのか聞いてみる事にした。

「うん。」

純はドキドキしながら頷いた。

「その前に聞きたい事があるんだが、今、誰か好きな人いるのか?」

「えっ、何言ってんの。親父ならそんな事分かる筈だろ。」

「多分、真奈美だと思うが、本当の心の中が知りたいんだ…。」

「なあんだ、やっぱり全部分かっているんじゃないか。」

「そうか、やっぱり勘違いをしている様だな…。私が純のシナリオを書くのは、あくまで純にとって一番良いだろうという、私なりの考えを神様にお願いする為で、それをどうするかという事は、あくまで純が自分で考え、自分で選ぶ道なんだぞ。」

「えっ!僕を超能力みたいなもので予言通りに動かしていたんじゃないの?」

「何を言ってるんだ。それなら、私がこんな所に来る必要もないだろう。純の人生はあくまでも純のものだよ。私はただ私がいいと思うシナリオを書いて、後は神様にお任せするだけの事。その後、神様がどうするかは私も知らない。だけどその神様なら、純の言う超能力もあるかも知れないな。」

哲夫が少し笑いながら言った。

「神様ってどういう事?本当にいるの?」

「実は私もよく分らないんだ。私はただ、私の父が私に教えた通りの事を何も考えず続けてきただけの事だ。私も最初は半信半疑だった。しかし、書いていく内に、それが何故か望んだ通りになっていくので、それでどこかに神様らしい者がいるんだなってわかったんだよ。」

「ええ、そんなのおかしいよ。知らないでどうして、シナリオを見せられんだよ?」

「純、これは本当の事なんだ。何処でどうして見ているのかは知らないが、ただ書くだけで私のシナリオを読んでくれていたのだ。私も何回か神様が何処にいるのかを考えた事がある。しかし、どうしても見つけられなかった。その内、そんな事より、お前や久美子のシナリオを書く方が楽しくなって、神様の正体なんてどうでもよくなったんだ。父さんもお前と同じような幻想を追った事があるのだ。純、分かってくれ、その答えは見つける事は出来ないのだ。かつて、私の父が私に教えてくれた様に、私もお前にシナリオの書き方を教える事しか出来ないんだ。そのシナリオがどうやって神様の所へ届くかは本当に分からないんだ。」

「神様っているのかな?」

「純、真奈美と結婚しろ。結婚して、子供を作ってシナリオを書いてみろ。それから自分で答えを見つけてみろ。なぜなら、私も、自分のシナリオに書いた願望が達成された事だけで、神様がいるんじゃないかと感じただけだからだ。お前も自分で書いてみて、それがどうなるかを見て自分で感じてみろ。と言うのも、もしかしたら単なる偶然によって起こった事を神の仕業だと信じていたかもしれないし、書く事によって自分の中に起こっていた願望を無意識に自分の力で達成していたのかもしれないからだ。神様についてあまり深く考えちゃ駄目だ。どんなに考えたって、いる人にとってはいるし、いない人にとってはいないからだ。そしてそれは、どうにかして自分で決めるしかない事なのだ。」

「何だか、難しくって分かんないよ。」

「そう、だから考えなくていいのだ。でもこれだけは言っておくよ。その答えはいつか必ず分かるから、慌てるな。そしてそんな事を考えず、とにかく一生懸命に生きろ。」

「そのシナリオのシステムというのは、皆が使っている事なの?」

「シナリオを書くというのは、我が家独特のやり方だが、その形は色々で、普通に願望を持っても伝わるという風に、父から聞いた事がある。でも、それも確かなところかは分からない。」

「神様はいるかどうか分からないって事か。大体分かったけど、親父がここにいる事の不思議ってどういう事なの?」

「純、こればかりはどう説明しても分らないと思うよ。とにかく、私は死んだんだよ。今ここに居れるのは、純が眠っていて、あの世とこの世の中間にいるからなんだ。」

「どういう事?だって今は目が覚めてるよ。」

「確かに覚めているけど、現実の世界から隔離されているだろ…。」

「どういう事?今ここにいる事自体が現実じゃないか。」

「困ったな…。やはりどう説明しても分らないだろうから勘弁してくれ。でもこれもさっきの事と同じで、死ねば必ず分かる事だから、慌てて知る事もないだろう。」

「そんなのずるいよ。」

「純、いい加減にしなさい!そういうものは本来自分の人生の中で、自分で答えを見つけるものなんだぞ。それを全部聞こうとする事の方がずるいぞ。どうしても知りたいんだったら、現実社会で答えらしきものを商売にしている人が一杯いるから、勝手にすがりつけばいい!しかし、純、お父さんはどうしてもお前自身に答えを見つけて欲しいんだ。そうでないと、人生面白くないぞ。分かってくれるか?」

「よく分かんないけど、分かった。じゃあ、最後にもう一つ聞いていい?」

「何だ?」

「あの世って楽しい?親父、寂しくない?やっぱり僕のせいでそんな酷い所へ行ったかと思うと、責任を感じてしまうんだ。」

「そんな事は心配するな。お父さんの事はお前のせいじゃないし、今居る所はそんな酷い所じゃない。それに、あの世でも、お前や久美子のシナリオを一生懸命書いているから、退屈する事もないしな。でも勘違いするなよ。さっきも言った様に、人生の選択は常にお前自身がしているんだぞ。ただ、あの世からも、お前達の人生を見ているという事だよ。」

「死んでもシナリオ書いてるんだ?」

「シナリオだけじゃないぞ。」

「どういう事?」

「自伝を書いてるんだよ。」

「自伝?」

「そうだよ。でも、書いてみると本当につまらない人生だったなと後悔してるよ。」

「そんな事ないよ。最高の人生だったじゃない。それより、親父の魅力を今まで分からなかった俺の人生の方がよっぽどつまらないよ。」

「ありがとう、純。でも、これだけはよく聞けよ。私の最後のアドバイスだ。結婚して、立派なシナリオを書け。それと、あの世へ行って更に立派な自伝を書ける様に、素晴らしい人生を送れ。お父さんはそれを読むのを楽しみにあの世で待ってるぞ。」

「分かったよ。俺、一生懸命生きるよ。そしてあの世へ行った時、親父の自伝を読むのを楽しみにするよ。」

「馬鹿者、死ぬ事を楽しみにするな。」

「分かってるよ。」

「それから、今日あった事は誰にも話すな。」

「じゃあ、俺が今度子供に教える時はどうするの?」

「それはその時が来れば分かる。」

「なんか、そればっかりだな。」

「残念だが、もうそろそろ行かなくてはならない。純、もうあまり無茶をするなよ。」

「もう行くの?」

「そうだ。」

哲夫がそう言って、純の瞼に手をかぶせると、不思議な事に純は麻酔が効いた様に眠りについてしまった。哲夫はその寝顔を確認してから、椅子を元の所に戻し、静かに部屋を出て言った。ちゃあんと、ドアを開けて…。

 次の朝、目を覚ました純は、昨日の事が本当にあった事なのかどうかを考えた。しかし、どう考えても、それが本当にあったという、限りない現実感しかなく、それを現実にあったと証明出来る確かなものは無かった。

「純、おはよう。昨日頼まれたもの、ちゃんと持って来たわよ。」

芳恵がドアを開けて入ってきた。

純は、昨日あった事を言おうとしたが、どうせ信じて貰えないだろうと思い、やめた。

「ありがとう…」

しかし、お礼を言いながらも、頭の中は昨日の事で一杯であった。

「久美子たちは午後に来ると言っていたわ。」

トントン。誰かがドアを叩いた。

「どうぞ。」

芳恵がそう言うと、真奈美が手に花を持って入って来た。

「純、具合どう?」

「真奈美さん、こんな早くから来て頂いて…。」

「いえ、ただお弁当を作ったので食べてもらおうと思いまして。」

真奈美はお弁当の入った小さな袋をプラプラさせながら、恥ずかしそうに言った。

「あら!」

芳恵は一瞬言葉を詰まらせた。というのも芳恵も、純に手作りのお弁当を作ってきたからである。

「何か?」

真奈美が聞いた。

「いえ、そこまでしてくださるなんて、家の純も幸せだな、と思いまして…。まあ、素敵なお花ね。早速、お水に入れなくっちゃね。」

芳恵はそう言って花を受け取ると、花瓶を持って部屋を出て行った。

「本当に今日も来てくれたんだ…」

「足折ったぐらいで、何死にそうな声出して言ってるのよ。大げさね。」

「何だよ。お袋がいなくなったからって、そんな急に態度変えなくたっていいじゃないか。それに、ある意味で天国に行きそうになったんだから…。」

「分かったわ。それより病院のお食事じゃ美味しくないと思って、これ、作ってきたわよ。」

純は、真奈美に昨日の事を話すべきか迷った。しかし、それが夢だったのか、本当の事だったのか、自分でも分からなくなっていたので、もっと自分自身で整理してからにしようと思った。

「昨日ちゃんと、お医者さんに栄養配分を聞いて作ったから、安心して食べて。」

真奈美はそんな純の気持ちを知らずに、袋から小さなタッパーウェアを次々取り出した。

「あら、美味しそうね。」

花を持って戻ってきた芳恵が言った。」

「お袋にはやらないよ。」

純はそう言うと、これ見よがしに一口食べた。

「うまいよ、真奈美。」

純は、ほっぺを膨らませながら他の物もパクパク食べ始めた。それを見た、芳恵と真奈美は目を合わせて笑った。二人はそれがきっかけで会話が弾み、すっかり意気投合した。芳恵も、気を使うのはやめて、自分で作ってきたお弁当を真奈美に食べさせた。そして午後になって、久美子達が加わると、まるで純の事なんか忘れたように話が弾んだ。それは、午後の検診で、すぐに退院出来る事が分かると、なおさら酷くなった。

「真奈美さんて、こんなに面白い人だと思わなかった。」

久美子が言った。

「料理も上手だし。」

芳恵が言った。

「結婚するしかないんじゃないの。」

正則が言った。

「親父と同じ事言って…。」

純は思わず口走ってしまった。

「え、お父さんが何と言ってたの?」

何事も聞き洩らさない久美子が聞き返した。

「いや、実は昨日、親父の夢を見てさ。その時同じような事を言ってたのさ。」

純は、夢の中の出来事として言った。

「それって、深層心理の中の結婚願望の表れじゃじゃいの?」

正則が言った。

「そんな事を言って純を困らせないでください。私達、そんなのじゃないんです。と言うよりも、純だってまだ学生だし、そんな事考えていないんです。」

真奈美がそう言いながら、ちょっと動揺していた。

「冗談だよ。じゃあ、俺達そろそろ帰るよ。」

「もう行くのかよ。」

「気持ち悪いな、いい年こいて甘えるんじゃねぇよ。」

正則が小さな声でそう言うと、純はムスっとして黙った。

「純、明日も何か持ってきてあげるからね。じゃあ、真奈美さん、私達先に失礼するわ。」

芳恵と久美子はそう言って、ゾロゾロと病室を出て行った。

「あたし達を目の前にして、よくあんな話するわよね。まだそんな事考える年じゃないのに、恥ずかしいわよね。」

「俺、考えてるよ。」

「えっ!?」

真奈美は、一瞬聞き間違えたと思った。

「俺、お前との結婚真剣に考えてるよ。」

「ちょっと、皆にそう言われたからって、あまり簡単に言わないでよ。」

「卒業したら俺と結婚してくれよ。本気なんだ。」

「本気って、こんな所で、そんな簡単にプロポーズしないでくれる。女の子はそういう場面をロマンチックに夢見てるんだから…。それを、そんなに簡単に壊さないで。」

「そうじゃないんだ。確かに君にとってはいい加減に聞こえるかもしれないけど、俺にとってはこれ以上劇的なものは無いぐらいの動機があるんだ!」

純はそう言うと、親父が枕もとに表れて結婚を勧めた事を話始めた。そして、子供を作ってシナリオを書く事も全部…。

「確かに貴方にとっては、一大事な夢かもしれないわ。でも、それじゃあまるで、お父さんに言われるから結婚するみたいじゃないの。」

「違うよ!親父が、誰と結婚したいかって聞いた時に、俺は真奈美だって決心したんだ!」

「でも、卒業するまでまだ何年もあるんだから、何も今から決めなくたっていいじゃないの。」

「真奈美、本木なんだよ。考えてもみろよ。本気だから、普通の人が信じもしない話をしたんじゃないか。俺にはわかるんだ。もうお前以上に俺の事を分かってくれる奴なんかいないし、これからもいない事を。それが分かってるから、早いも遅いもないんだよ。もう、俺にはお前しかいないんだよ。」

「それでも…、やっぱり、あたし、もっと素敵で、もっと思い出になる時に聞きたかった。それをどうして、そんな急に、そんな、簡単に言ってしまうの。」

真奈美はそう言いながら、鼻をヒクヒクさせ始めた。

「そうか…。ロマンチックどうのこうのは無いかも知れないけど、込められている気持ちは、絶対誰にも負けない。そんな、変に演出されたプロポーズより、こっちの方が、突発的で、本能的で、純粋ではるかにロマンチックだ。」

純は、泣き崩れる真奈美の手に自分の手を乗せて優しく言った。

真奈美は、何も言わずその手を強く握り返した。

 数日後、純は無事に退院した。しかし、車に轢かれて死にそうになった事、哲夫があの世から会いに来てくれた事、真奈美にプロポーズした事は、彼の人生に大きな節目を付けた様であった。それから純は、哲夫との約束通り、謎を追うのをやめて普通に暮らした。学校にも真面目に通い、無事卒業し、そして、真奈美と結婚した。久美子も正則も同じ時期に結婚した。哲夫が居なくなってから、元気をなくしていた芳恵も、その二つのめでたいニュースで大分元気を取り戻した。そして、まるで哲夫を早く死なせた事を申し訳なく思った神様が運を与えているかの様に、その後もめでたいニュースが続いた。例えば、純は哲夫が果たせなかった作家としての血身をめざして成功した。

会社の方は、正則の商才が頭角を現し、久美子も積極的に経営に参加させて大きくしていった。真奈美は、芳恵と共に純のマネージャーとして活躍した。そしてついに、純は一時の父となった。しかしその子はどういう因果か、純が足を折って入院していた病院で生まれた。

「女の子よ。」

純は真奈美の横にいる、信じられない位小さいDNAの伝達者を見て驚いた。

「そうか、よく頑張ったね。本当、お前によく似た、可愛い子じゃないか。これから、俺とお前でこいつの最高のシナリオを書いてやらないとな。でも、こいつを幸せに出来るシナリオを書けるかな?」

「大先生が何を言っているのよ。」

「でもこの病院で産む羽目になるとは思わなかったな。」

「貴方、ここでお父さんにお会いして、運を掴んだのでしょ。だから、きっと今回も、お父さんがここにお呼びして、この子に運を授けるのだと思うわ。」

「そうだね。俺もここで親父から、子供のシナリオを書く事を習ったし、無関係じゃなさそうだ。あの時親父が言っていた、「子供のシナリオを書く事は、どんな作品を書く事よりも面白い」という意味が、今は分かるような気がする。でも、どんな作品よりも難しいって事も、今感じてるよ。」

「純、大丈夫よ。貴方なら出来るわ。」

 娘の名前は「信子」と付けられ、その次の年に生まれた男の子は「裕二」と名付けられた。一方、久美子達の方にも男の子が生まれ、「豊」と名付けられた。一度にたくさんの孫に囲まれる羽目になった芳恵は、とても幸せそうであった。そして純の方も、意外な子煩悩ぶりを発揮して、子供と仲良く遊んだ。もしかしたらそれは、昔から言われ続けてきた、「大人になれば分かる。」事を分かったのかもしれない。いつか「親の気持ちになれば分かる。」と説教をした、酔っ払いのげんさんの言う事が分かったからかもしれない。とにかく純は、やっと一人前の大人になった様だ。そしてそれとともに仕事の方も順調に進み、これから先も何の不安もない様な日々が続いた。ところがある日、大事件が起きてしまうのであった。

「純、大変よ!!」

真奈美が血相を変えて、書斎に飛び込んできた。

「そうしたんだ。信子が近所の犬にでも噛みついたのか?」

純は、どうせ大した事ではないだろうと思い、軽く返事をした。

「違うのよ。芳恵さんが、お母様が、自害なされたのよ。」

「何だって!誰から聞いたんだ!?」

純は泣きじゃくる真奈美を強く揺すりながら聞いた。

「正則さんが、今電話してきたのよ。とにかく、早く、病院の方へ行きましょう。」

純達は、狂ったように車を飛ばして病院に行ったが、間に合わず、芳恵は既に他界していた。

「どうして…?孫を見てあんなに喜んでいたのに…、一体何が不満だったんだ?」

「お母さんね、お父さんの所へ行ったのよ。」

うつむいたまま久美子が言った。

「親父の所へ…?」

純が聞き返した。

「そうよ!私とお兄ちゃんには正則と真奈美さんがいるけど、お母さんに誰もいないじゃない。お母さん、口には出さなかったけど、ずっと寂しかったのよ。お兄ちゃんがお父さんを殺したから、お母さんはずっと寂しい思いをしたのよ。お兄ちゃんはお母さんも殺したのよ!」

久美子は取り乱して、純に食ってかかった。

「馬鹿な事を言うんじゃない!」

正則は、狂ったように純を責め立てる久美子に怒鳴った。

「正則、いいんだよ…。久美子の言う通りなんだから。」

純は、正則にそう言うと、トボトボと病室を出た。

「真奈美、久美子の奴が馬鹿な事を言って悪かったね。」

「今は、誰も冷静になれないわ。」

真奈美は正則にそう言うと、タタタと純の後を追った。

「どうしてお兄ちゃんをかばうの?一番可愛そうなのはお母さんでしょう?」

そう言いながら泣きじゃくる久美子の声は、執拗に純のいる廊下まで響いた。

「純、久美子さんは何処に怒りをぶつけていいのか分からないのよ。だから、一番身近な貴方に怒りをぶつけているだけなのよ。でも本当は貴方の事が大好きなのよ、分かってるわね?」

「ああ…」

純は、一生懸命分かろうとしたが、久美子の言った言葉は純の心の奥深くにガビビーンと突き刺さった。そして、その芳恵の事件がきっかけで、純の心に再び色々な疑問が持ち上がった。

芳恵の葬式が終わった数日後、純はいつもの様に家で晩御飯を食べていた。

「ごちそうさん…。」

純は、元気のない声でテーブルに箸を置いた。

「もういいの?すぐ立ち直れというのも無理かもしれないけど、食事ぐらいはちゃんと取らないと、体を壊しちゃうわよ。」

真奈美は、残した料理を心配そうに見た。

「いや、そうじゃないんだ。今。新しい作品の構想で頭がいっぱいなんだ。」

純はそう言って書斎の中に閉じこもった。真奈美には、新しい構想を練っていると言ったが、本当は、哲夫や芳恵の事でバラバラになっているものを頭の中でまとめる事に精一杯だった。

―あの日の親父の話をまとまると、「親はこのシナリオを書いている。しかし、それが誰にどうやって読まれ、行われるかは、分からない。もしかしたら、自分で自分の願望を達成しているのに、誰かが行っているという風に思っているだけかもしれない。」という様な事だったな。分かったような気になっていたが、これじゃあ、答えを聞いてるようで結局聞いてないようなものだな。一体どっちが本当なのだろう?

神のようなものは存在しているのだろうか、いないのだろうか?

それよりも不思議なのが、親父があの世から来たという事だ。死後の世界なんてあるのだろうか?そんな不思議なものがあるのなら、神もいるのかもしれない。そう言えば、親父はあの世でも僕らのシナリオを描いていると言ったが、あの世で書いているという事は、あの世から僕らに関与してしるのかな?とすると、「あの世から見ている」と言う事が、親父も見つけられなかった神の謎の部分なのかな?いや待てよ。親父は、自分の人生はあくまで自分の選択によって行われていると言ったものな。それに全ての事が非現実的すぎる。

しかし、神自体が非現実的なものだしな。

これじゃあ、いけない!もっと現実的に考えなくては。親父の言った様に、シナリオを書くという事が、願望が無意識に原動力となって働き、全てに影響を与えているのかもしれない。例えば、自分の子供を歌手にしたいと思えば、親は当然そういう環境を作ってしまう。それうをお袋が言ったいた、主婦のネットワークのようなものに乗せてしまえば、周りの人もその子が歌手願望である事を知り、無意識にそういう暗黙の了解で扱うようになる。そしてそれが、自然と、周りからそういう方向に物事を強引に持っていってしまうのかもしれない。そして子供は、その環境に左右されて、自由に選択している様でも実は、限りある中から選択させられているのかもしれない。「何処そこのあの子は歌手になりたいそうよ」と言った井戸端会議的なものも局部的に見ればとっても日常的でつまらない事だが、その潜在的な伝染力をマクロ的に考えれば、とてつもない影響をその子に与えるのかもしれない。非現実的に考えた時にどうしても出てくる神の力というものは、実はこうした日常の中で無意識の内に作用しているシステムの効力なのかもしれない。ある意味で、世の中の人は皆、知らない内に何らかの形で、神の力に関与しているとも言える。そして我が家はそれに気付いて、シナリオを書くという形を取っているにすぎないのかもしれない。現実的に考えてもここまで説明出来る。要するに、現実的な要素はミクロな部分しか説明できず、それがマクロ的に作用した時に及ぶ効果が説明出来なくて、非現実的なものとして扱われるのかもしれない。こう考えると、現実的なものと、非現実的なものなんて、本当はとても身近に密接に関係しているものなのかもしれない。

純は、芳恵の自殺のショックで得た、哲夫があの世から知恵を授けているような閃きで、本来普通の人間では気付かない事まで気づいた。そして、その溢れんばかりの天啓の勢いはなおも続いた。

―しかし、待てよ。確かに世の中、小さな事も大きな事も、お互い曖昧で不思議な関係で絡み合って、水車の様にぐるぐる回っているけど、この水車は自然に回り出したものなのだろうか?この水車をうまく回している川の様なものが、何処かにあるのじゃないだろうか?親父の言っていた死後の世界と言うのは、この水車から飛び出した、川の世界みたいなものなのだろうか?いや、そんな馬鹿な。幾ら非現実的なものが、ミクロな現実的な感覚では見えないからと言って、死んだら何にもない筈だ。現実世界から寸断されている。しかし、じゃああの日の親父は、夢の中の事だったというのだろうか?いや、夢の中の出来事で、俺の疑問に色々と答えられる訳がない。しかし、俺の潜在意識の中にあった答えが、夢として出てきただけなのかもしれない。うーむ…、分からない…。

純は思わず頭を抱え込んだ。

「純、お仕事はかどってる?」

真奈美はドアの隙間から頭をチョコンと出してそう言うと、お茶を持って静かに入ってきた。

「ああ」

「さっきはご免なさいね。作品の事で悩んでいるのに、勘違いして…。かえってお母様の事を思い出させちゃうのにね。」

「いいんだよ。」

「今度はどんなものを書くの?」

真奈美は純の原稿を覗き込む様にして聞いた。

「簡単には言えないけど、今までに無い壮大なテーマなんだ。」

「へー、どんな事?」

「そうだね。神なんて言ったら宗教っぽくなっちゃうかな?」

「神、そうね。でも貴方が書きたいんだったら書けばいいと思うわ。」

「そうか、そうなんだよ。今、まるで親父があの世から書けと言っているような感じでストーリーが閃くんだ。今日一日で出来上がってしまうような勢いなんだ。」

「それは凄そうね。あの宝くじの時みたいに、閃きを大事にした方がいいわ。でも、あんまり無理しないでね。じゃあ、先に寝るけど、何かあったら何時でも起こしていいからね。」

真奈美はそう言って書斎を出て行った。

―ありがとう、真奈美…

純はそう言いながら、熱いお茶を一口すすった。

―全てが、単に自分が発信した情報が自然に人々のネットワークに乗って影響してくるだけならば、理屈で考えれば凄い事だけど、普通に考えれば、何もしなくたってそういう事は起こるのだから、単に情報が発達した分、自分の予想もしない形、まるで神の力の様に、跳ね返ってくるだけなのかもしれない…。でもそれだけでは、こんな特定の意味を持った跳ね返り方はしないか。それに親父は、まるでその情報を全て把握しているかの様な高い的中率で俺のシナリオを書いてたもんな。何と言っても、情報の川の自然な流れに任せるだけならば、こんな面倒くさいシナリオをいちいち書かなくなっていい筈だ。やはり、シナリオを書いて、その情報を適切な流れに乗せる何かがあるから、呪術の様な影響力を持ってくるのだろう。そう考えると、やはり全てに影響を与える得る神の様なものがあるように思えてくる。うーむ、また元の所に戻ってしまうな。やはり、水車の外に飛び出さないと全て見えてこないのかな。それにしても、水車の外とは一体どんな所なのだろう?この世のものなのか?そうではないのか?本当に親父が来たという、あの世の事なのだろうか。今考えると、あの日の事自体が本当にあった事なのか、それとも夢の中の事だったのかも不安だな。大体、もしかしたら、何か大きな勘違いをしていて、水車の外の世界なんて無いのかもしれない。うーむ、やはり、分からない。

純はそう言いながら、全ての事を物語風に書いて、整理し始めた。そして、芳恵の事を思い出して筆を止めた。

―もしかしたらお袋は、親父があの世で生きているのを確信して、後を追ったのかもしれない!?お袋は、親父があの世という所で、俺の会った現実に形をして生きている事を知っていたのかもしれない。そうだよ、そうでもなければ、その気の弱いお袋が自殺なんて出来る訳がない。やっぱりあの日あった親父は、あの世という所で現実に生きているんだ!じゃあ、あの世というのは何なのだろう?死ねば行けるのか?でも死んだら灰になるんだから、そんな訳ないよな。やっぱりお袋も、あの世がある事を信じて後を追っただけなのかな?それにしてもこれは、これは恐ろしいテーマだ。あると思えば天使のいる天国がある様に限りなく思えるし、ないと思えば、一寸先は闇、単なる妄想の様にも思える。確かな答えを知るには、死ぬ他ないのだ!その死の世界に対する探求心は、強くなればなるほど、僕を死の世界へ誘惑する悪魔のテーマだ。答えは、死神に聞くしかないのだろうか?これはやはり、親父が言っていた様に答えの出ない事なんだ。

純は頭を大きく振り、常識を逸脱しようとしている自分を取り戻そうとした。そしてその時、真奈美の持ってきてくれたお茶がほのかな湯気を立てているのが目に入った。その上、その横には、純の好物を知り尽くしたお茶菓子が、可愛く並べられていた。

「真奈美…。」

純の胸の中に、説明しがたい生へのエネルギーが渦巻いた。

― 一体今の生活に何の不満があるのだろう?こんなに愛してくれる真奈美がいて、子供達もいる。仕事だって順調だ。親父の言っていた様に、これは考えてはいけない事、考えてもしょうがない事なのだ!大体、答えを出した所で、一体何の得があるのだ!?何も無い。もうこんなくだらない事を考えるのはよそう。死ななければ、答えの出ない事なんて、何の意味もないし、その価値もない…。しかし、せっかくここまで馬鹿な事を考えたんだから、せめて話のネタとして使わせてもらおう。長い間、俺を苦しめてきたこのガンの様な謎を紙の上で供養してやる。そうだ、その前に愛する愛する真奈美と子供達の顔を見て来よう。

 寝室の中に入ると、真奈美が可愛い顔をムニョムニョさせて寝ていた。

「愛してるよ…。」

純は、真奈美の髪をそっと撫でながら呟いた。

そして今度は子供達の顔を見た。

「お前達も愛してるぞ。」

そう言って、父親らしく布団を掛け直してあげた。

「純、もう仕事終わったの?」

どうやら物音で目が覚めたらしく、真奈美が布団の中から言った。

「まだだけど、もうすぐ終わるよ。」

「本当は、起きてお茶でも入れてあげたいんだけど、今日は子供達の世話でとっても疲れてるの。ごめんなさいね。」

「いいんだよ。その上、夜中まで大きな子供の世話をしてたんじゃ体がもたないものな。ゆっくりお休み。」

「ありがとう。ねえ、こっちへ来てキスしてくれる?」

真奈美が甘えた声で言うと、純がそばまで来てキスをした。

「俺、お前と結婚して本当に良かった。」

「そんな事改まって言わないでよ。変な人。」

真奈美が照れるように布団に潜り込んだ。

「お休み。」

「ねえ、あんまり遅くまで無理しないでね。」

「分かってるよ。でも、今日だけは好きな時間まで書かせてくれ。凄く気分が乗ってるんだ。」

「分かったわ。」

純は真奈美に軽くウィンクをすると、再び書斎の方へ消えて行った。

次の朝早く、真奈美は目が覚めて隣を見た。しかし、純はまだいなかった。

「あら、まだ書いてるのかしら?」

時計を見ると、朝の四時半を指していた。真奈美は心配になって、毛布を一枚持って書斎に行った。

「純、起きてるの?」

真奈美は、ドアの外から呼んでも返事がないので中に入った。すると純は、机の上でうつ伏せになって寝ていた。

「全くしょうがないわね。風邪をひいちゃうじゃないの。」

真奈美はそう言って、純に毛布をかけに行った。机の上を見ると、書きなぐった作品が散らばっていた。

「純、そろそろ切り上げて布団で寝たら?」

真奈美はそう言いながら、純の肩を揺すったが、起きる気配はなかった。

「純!?」

真奈美は起こそうとして、さらに強く揺すった。ところがその時、キャスター付きの椅子が転がって、純は床に倒れ落ちた。

「純!大丈夫!?」

真奈美は慌てて純を抱き起したが、その時、机の上から錠剤と便が転げ落ちた。真奈美はそれを拾い上げて驚いた。

「睡眠薬!!嘘でしょう!?ちょっと、純、起きて、起きなさい!」

パニック状態になった真奈美は、必死になって純を揺り起そうとしたが、もう完全な昏睡状態だった。直ぐに救急車を呼んで病院に運んだが、時既に遅く、とうとう一時間後に息を引き取った。

「純の馬鹿!馬鹿!どうしてこんな事したのよ!どうして!?」

真奈美は、そう言って純の遺体の横で泣き崩れた。

 久美子は、家族の度重なる不幸で何回も葬式をする事になり、大分精神的に参っていた。しかし、今回の葬式はいつもとちょっと違っていた。しかし、今回の葬式は、いつもとちょっと違っていた。葬式の規模、埋葬する場所、やり方が哲夫達の時とは大分違っていたのだ。しかも当日、何故か今まで見た事もないような人達が大勢、葬式に参加しに来た。久美子は、たった一人になって何も分からないので、正則達に準備を頼んだのだが、そのせいでそうなったのだろうと思った。そうこうして葬式が終わると、キリっとしたスーツに身を固めた数人の男たちが純の遺体を運び出した。その男たちは、皆背が高く、とても均整のとれた美しい体格をしており、不思議な事に顔も皆似ていた。久美子達は、その妙に規律正しい仕草に息を呑みながら、黙ってその後をついて行った。純の遺体は、哲夫達の時より派手な霊柩車に乗せられ、久美子達はその後ろの派手なリムジンに乗せられた。車は、都会の喧騒を抜けると、舗装状態の悪い田舎道に入り、そこを一時間ほど走った。久美子達は、そこが何処なのかを知ろうと、濃いスモークドガラスの向こうを一生懸命に見たが、その場所を示すようなものは何も見当たらず、たまに人が住んでいるのかどうか分からない様な農家がポツリポツリとあるだけであった。やがて、その田舎道に、妙なミスマッチ感覚を漂わせながら突っ走る霊柩車は、今まで見た事も聞いた事も無い様な小さな飛行場に着いた。そこには、ステルス機の様に黒鉄色に塗られた、五十人乗り位の飛行機が停まっていて、同じように体格のいい数人の男達が出迎えに立っていた。霊柩車に乗っていた男達は、純の遺体を飛行機に乗せると、次々と乗り込んだ。そして、久美子達が不思議そうにそれを見ていると、他の男達が来て、その飛行機に乗せた。飛行機はそこから更に数時間ほど飛んで、地理で習ったことも無いようなある山の中に着陸した。ちゃんとそこにも綺麗に整備された小さな飛行場になっていて、何幾かの飛行機が停まっていた。しかし、不思議な事に、発着する飛行機は他には無く、まるで閉鎖された無人の飛行場の様であった。久美子達は、そこが何処なのかを知ろうと周りを見たが、特徴となる看板や建物は何も無かった。その不思議な光景に唖然としていると、さっきの男達がやって来て降りるように指示した。久美子達はそこが何処なのかを聞こうとしたが、その男達が放つ何か不思議な迫力に押されて聞けなかった。小さなトラップを降りると、再び数台の真黒なリムジンが待ち構えていた。その車に乗り込んでしばらく走っていくと、今度は、今まで見た事も聞いた事も無い様な、壮大で美しい建物に入って行った。そこが目的地らしく、大きなロータリーを回って建物の前に車が止まると、運転手がロボットの様に黙ってドアを開けた。

「あっ!」

「どういう事!?」

「お父さん、お母さん!」

久美子達は、外を見て驚いた。何と、哲夫と芳恵がそこに立っていたからだ。久美子は車を飛び出して勢いよく抱きついた。

「どういう事なの!?そうして生きてるの?」

久美子は信じられない様子で、二人の体の感触を確かめた。

「それは、後でゆっくり話すよ。それより純の事は残念だったな。」

哲夫は真奈美の方を向いて言った。

「申し訳ありません。突然の事で…、私にもどうにも予測がつきませんでした。それにしても、皆さん、生きていらっしゃるとは驚きですわ…。」

真奈美は困惑した表情で言った。

哲夫達はそこで葬式の列に加わり、純の遺体を天国を絵に書いた様な立派な墓地に運んでいった。そしてそこで最後のお祈りを捧げると、哲夫は皆を近くの建物の中に連れて行った。埋葬に来たいた不思議な人達は、そこで沢山の料理が並べられた大きな部屋にひとまとめにされたが、久美子達と真奈美は、哲夫達と一緒に特別な部屋に入った。その部屋の中にはさらに豪華な食事が用意されていて、皆はそれぞれ自分の名前のある席に案内された。

「みんな、色々大変だったね。久美子、お前も驚いただろう。本来は、お前もここに来てはいけないのだが、純の行動で全てが狂った。それと、芳恵が一人ぼっちで残っていたんじゃ可愛そうだと言うものだから、皆と相談して、ゲームを終わりにする事にしたんだ。」

哲夫が久美子に言った。

「ゲーム、どういう事?」

久美子は、何が起こっているのか分らなかった。

「それを今から説明するのよ。哲夫さん、これが純が最後に書き残したものです。」

真奈美はそう言うと、哲夫に純の作品を渡した。

「そうか、ありがとう。皆も腹が空いているだろうから、食べ始めていいぞ。」

哲夫がそう言うと、正則が勢いよく食べ始めた。

「正則、どうしてそう平気で食べられるの?親友が死んで、その上、死んだ筈の人達が生きてるのよ。真奈美さんにしたって、随分冷静だわ。まるで、皆、密通していてあたしだけ何も知らないみたいじゃない!」

久美子はその場に立ちあがって、ヒステリックに言った。

「当たらずも遠からずだな。でも、お前も、純よりは知っていたけどな。うん、こりゃあ、うめぇや!」

正則はそう言いながら、皿に盛った料理をムシャムシャと食べ始めた。

「久美子さん、あたしだって哲夫さん達が生きてる事は知らなかったわ。」

真奈美は久美子に弁解するように言った。

「まあ、そう興奮するな。今、全てを話すよ…。」

哲夫はそう言って、久美子を席に着かせようとした。だが、その時部屋のドアが開いて、側近を連れたVIP臭い老夫婦が入ってきた。

「最高議長!この度は申し訳ございませんでした!」

その人を見て、哲夫と芳恵が立って挨拶をした。

「まあ、いいから座りなさい。今回の事は残念だったね。ほう、この子が妹の久美子さんかね?大分揉めてる様だね。」

その「最高議長」とか呼ばれている老人は、自分の風格を表す様に、重みのあるゆっくりとした口調で言った。しかしその風貌はガッシリしていて、年を感じさせず、それどころかエネルギーを放っている様であり、眼光はとてつもなく鋭く、威厳があった。

「このおじいさん誰?」

久美子はキョトンとした顔で言った。

「久美子。この人達は、我々一族の最高位者だよ。」

「何それ?」

「哲夫君、それについては私から直接話させてくれ。」

老夫婦はそう言うと、側近の作った席にどっしりと座った。奥さんの方は、黙ってニコニコしていたが、よく見ると、その眼は鋭く、笑ってはいなかった。

「久美子と言ったね。私の名前は、アル、そしてこちらがメル。一応、夫婦だが、位の上で言えば、二人とも同じだ。位と言っても分らないだろうが、君を含めた、私達一族の事だ。」

久美子は、そのお祖母さんも同じ位だと聞いて驚いた。

「私もその一族?それにアルとメルって、どういう国の名前なの?」

「そうだね。どう説明したらいいかな。一族と言っても、その構造は複雑でな。いわゆる普通の人の感覚とは大分違うのだ。本当は、名前ももっともっと複雑なんだが、略称でそう呼んでいるのだ。とにかく、その一族の中で、君は正真正銘哲夫の血を受け継いだ子供だったが、純は特別な子だったのだ。」

「えっ、お兄ちゃんが?」

「そう。純は、A10B195931の遺伝子パターンを継ぐ、私の子だったのだ。」

その時アルは、悔しそうな顔をして握り拳を作った。

「なーに、そのA10何とかというもの?それに、アルの子供なんて年齢的に合わないじゃない。」

久美子は、「もう騙されないぞ」って顔をして言った。

「うむ、やはり君にはちょっと難しいかもしれないな。冷凍保存しておけば、幾つになっても子供は作れるだろう?ちょっと違うが、そんな様なものだ。とにかく、特別な遺伝子を持った純は、我々の作る壮大なドラマの主人公として選ばれた者の一人なのだ。」

「よく分からない。」

「まあ、最後まで聞きなさい。我々一族は、この世の中で絶大な力を持っている。しかし、表立ってテレビに出る事も、新聞に載る事も無いので、普通の人は我々の事は知らない。我々の様な一族は、全部で十程いる。君たちが知らない遙か昔から、この世の中を動かしている。我々はここであらゆるシナリオを書き、演出し、世の中を動かしている。私が監督だとすれば、哲夫は、助監督みたいなものだ。真奈美や、正則、そして久美子は役者みたいなものだ。と言っても、自然に演じているので、台本の無い役者と言った方がいいだろう。純は、君たちの様な役者と巧みに関わり合って、世界に散らばった特別な子達、要するに我々一族が選んだ子達と繋がり、歴史的に重要な役割を果たす筈だったのだ。純や、世界に散らばったその子達は、皆のまったく想像のつかない方法で、撮影され、我々の世界でドラマとして放送される。我々はここで、どんな役者の名演技をも越える生の迫力のドラマを見る事が出来るのだ。これ程素晴らしいドラマは、世の中に存在しない。」

「そんな事って・・・。」

久美子は、あまりに壮大な話に、訳が分からなくなっていた。

「しかし、今回の純の事で、残念ながらシナリオを書き換えなくてはいけなくなった。一族の間でも、純に寄せる期待は大きかったので、皆がっかりしている。」

「そんな凄い一族なら、何でこんな山の中にひっそりいるの?何でそんな遠回りな事をして世の中を動かすの?」

「説明しても良いが、今の君の概念では理解出来ないだろう。純も、もういないのだから君達も向こうに戻る必要は無い。だから、こっちで徐々に教えてあげよう。」

「ええ、もう戻れないの?」

「そんな事は無いよ。いつでも好きな時に戻れるさ。我々の一族である限り、この地球は君の庭みたいなものさ。」

アルはそう言って、にっこり笑った。

「何か夢を見ているみたい。真奈美さん達はこの事を知っていたの?」

「ある程度は知っていたわ。でも久美子ちゃんを始め、美樹ちゃんとか殆どの人は、知らないで自分の役を演じているわ。」

「正則は…?」

「俺は全知全能さ。なあんて、嘘だよ。君の親父が助監督なら、俺はさしずめそのまた助監督さ。」

正則がにっこり笑って言った。

「ひどい、なんで黙ってたのよ!じゃあ、お父さんが死んで、そして、お母さんも死んだのに、どうしていま生きてるの?」

久美子はまだまだ聞きたい事が一杯あると言った感じで、アルに食い下がった。

「アル、私に説明させてください。」

久美子を騙した事に負い目を感じたのか、哲夫がアルに申し出た。

「良かろう。その前に、悪いが君たちは席を外しててくれたまえ。」

アルがそう言うと、給仕やそ菌が部屋から静かに出て行った。

「哲夫君、存分に話したまえ。」

「有難うございます。久美子、とにかく見ての通り、私達は死んではいなかったのだよ。」

「えっ、始めから死んでなかったの?」

「そうだ。」

「そうしてそんな事するの?」

「香港旅行から帰って来た時、純と大喧嘩をしたのを覚えてるか?あの時、私のシナリオの事について問い詰めてきただろう。」

「じゃあ、本当の事だったのね!」

「そうだ。全く私の不注意だった。あの時は、芳恵のお陰で難を抜ける事が出来たが、純は私の知らない間に未来のシナリオ案を書いてあるノートをコピーしていたらしいんだ。そして、それで再び、私がシナリオを書いている事に感づき始めたのだ。さすがに、選ばれた子だ。それからというものは、猛烈な勢いで全てを見抜き始め、それで予定が全て狂い出したのだ。」

「でも、どうしてそのノートをコピーした事を誰も分らなかったの?」

「いや、アルは知っていたんだ。」

「じゃあ、どうして教えてくれなかったの!?」

「それはだね、その時点で哲夫に接触する事を一族が反対したからだ。」

アルが言った。

「そうなんだ。お父さんも久美子達と一緒で、その時はまだ事の全貌を知らなかったのだよ。ともかくそれで、純の人生がすべて狂いだして、私の力ではどうしようもなくなってきたのだよ。」

「ついに、アルが来たの?」

「いや、アルの使いが来たのだよ。それが、真奈美のお父さんだ。」

「えっ!知らなかったわ。」

真奈美は自分にも知らない事があった事に驚いた。

「どうして、皆知っていたり、知らなかったりするの?皆、アルの命令通り動いているのに、おかしいじゃない。」

頭の整理がつかなくなってきた久美子が、苛々しながら言った。

「久美子。ここが一番重要で難しいところなんだ。そしてこれはこの私でさえ、最近まで知らなかった一族の秘宝なのだ。我々皆、自分が知っているのものは全てだと信じて行動しているだけなんだ。でも、本当に全てを知っているものを全てだと信じて行動しているだけなんだ。でも、本当に全てを知っているのは、アル達だけなのだ。ある意味で、全てを知る者が、アル達になると言ってもいいかもしれない。とにかくこれに関して事は、もう言えない。それより、純の話に戻ろう。純は、私のこの失敗の他に、実は私のシナリオに、自分であるシナリオを書き足したのだ。それがあの宝くじ事件だ。それに気付かなかった私も馬鹿だった。とにかく純は、その宝くじ事件でシナリオの秘密にかなり奥深い部分まで気づいてしまい、天才的な洞察力と決して諦めない意地の固さで立ち向かってきた。ところがその直向きな姿に、真奈美を始め、正則やほかの仕掛け人達が、ひるみ始めて、純に同情し始めたのだ。そしていよいよそれを放っておけなくなったアルが、真奈美のお父さんを通じて、ある作戦を教えてくれたのだ。」

「どんな?」

「それは、死ぬ事だ。」

「えっ!」

「純にとって、私が謎の核心だったのだ。だから私が目の前にいる限り追究する事を諦めなかったであろう。そこで、真奈美のお父さんが、死ぬという芝居であの世から、要するにここの事だが、シナリオを書けというのだ。それと、私が死ぬという一大事で、真奈美を始め、あらゆる仕掛け人の同情心を取り去る事が出来、結束を固める事が出来ると言うのだ。最初聞いた時は、私も驚いた。本当に、こんなところがあるのかなんて信じられなかったし、本当に殺されてしまうのではないかと怖かったからだ。しかし、もう選択の余地はなかった。そこで私は、それを実行してみる事にしたのだが、禁じられているにも関わらず、その秘密を芳恵に話してしまったのだ。そうしたら、芳恵の奴も、後になって真奈美のお父さんに頼み込んで、私の所に来てしまったのだ。」

「だって、寂しかったんですもの…。」

芳恵は、哲夫にすまなそうに言った。

「馬鹿言え!そのショックで、純の奴が思い切った事をしてしまっただろう。」

哲夫が、困った顔で言った。

「哲夫君、もういいよ。終わった事だ。それより、久美子、もう大体分かっただろう。これ以上聞いても、頭がパンクするだけだぞ。何せ、この世の中、要するに我々の世の中だが、君が思っているより、ずっとずっと大きくって色々な事があるんだから…。」

アルはその大きさを示す様に、手大きく広げながら言った。

「ええ、これで全部じゃないの?なんだか、分かんないけど、これだけ聞けばいいや…」

久美子は、そう言いながら大きなため息をついた。

「哲夫さん…。」

真奈美が震えながら言った。

「どうした?」

「今の話を聞いて、驚きました。と言うのも、さっきお渡しした純の作品を読んで頂ければ分かると思いますけど、純はかなりのところまで分かっていた様ですわ。」

「ほう、それは面白い。哲夫君、声に出して読んでみてくれないかね。」

アルが身を乗り出して言った。

「分かりました。」

哲夫はそういうと純の最後の作品を大きな声で読み始めた。

―世の中皆、誰かを自分のシナリオで動かしている。そしてそれらは、醜く絡み合って水車の様にぐるぐる回っている。皆、自分の頭の中で考えた事をお互いぶつけ合って生きている事を考えれば、当たり前の人間関係かもしれないが、その当たり前を、遙かに大きな当り前で動かす者がいる。そしてそれは川の様に、外から我々の水車をぐるぐる回している。

私はその川の場所を知っている。私はそこに新のシナリオライターがいる事を知っている。もはや、私は、このつまらないシナリオを演じきれない。私は、彼らに会って、私に相応しいシナリオを談判する。場合によっては、自作自演だ。彼等は、あの世にいる。そして、あの世に彼等がいると確信できる者だけが彼等に会えるのだ。私は彼等に会える。しかし、君達は彼等に会えない。なぜなら、君達は、人から聞いてあの世にいる事を知り、そしてあの世にいる事を信じるからだ。しかし、私は、この魂で知り、そして、この魂で確信したからだ。信じる事は、疑う事の裏返しなのだ。だから君達は、会えるその日まで会えないのだ。しかし、私は、その扉を開ける言葉を知っている。私は、今から行く。しかし、何も恐れない。なぜなら、確信しているからだ。私は死を恐れない。なぜなら、あの世には天国も地獄もないからだ。

私は知っている。この世は劇場で、あの世にシナリオライターがいる事、そして、どんな悪役もどんな脇役も、あの世で素晴らしいギャラを貰える事を…。

哲夫は読み終えると、静かに黙祷した。

「素晴らしい。しかし純は、君の言ったあの世を間違えて受け取った様だな。残念だ。それが無ければ、彼は、間違いなく、私の後を継いでいただろう…。」

アルはそう言って、一滴の涙を流した。メルの方を見ると、彼女も小刻みに震えながら泣いていた。

「ところで、子供の方は元気か?」

アルが真奈美に聞いた。

「はい、叔母様の所に預けてきました。」

「そうか。実はな、今信子をどう育てるかを皆で検討中なんだが、私らに預ける気はないかね?」

「ええっ!そんな…。」

真奈美はアルの言葉に驚いて、ワイングラスをテーブルの上で倒した。

「いいじゃないか。一応、純の遺伝子を受け継いでいるから面白い事になると思うよ。」

正則は、倒れたグラスを起こすと、新たにワインを注いだ。

「勘弁してください…。皆も助けて…。」

真奈美は、皆にすがる様に頼んだ。

「一族の掟は知っているね?」

それまで黙っていたメルが、その言葉の重みを一層表す様にポツリと言った。

「・・・」

真奈美は、メルの迫力にすっかり沈黙してしまった。

「生まれた子供は、個人のものではなく、一族のものだ。だから、一族の決定によっては、どうする事も出来ない。分かってるね。」

アルがそう言うと、真奈美は観念してその場に泣き崩れた。哲夫達は、アルの決定を前にどう慰めたら良いのか分らず呆然としていた。数日後、一族会議の決定で、信子が選ばれた子として育てられる事になった。そして、今度こそうまくいくように、私情が入りにくい、反対派閥の選ばれたエキスパートに育てられる事になった。そして、役目から解放された哲夫や久美子達は、すっかりこちらの生活に馴染み、他の一族のもの同様、茶の間のテレビチャンネルをひねっては、世界各地の選ばれた者たちのドラマを見た。一方真奈美は、純と子供を失ったショックで、遠くにいる自分の子供の姿をテレビで見たり、純が生きていた頃のドラマをビデオで借りては、涙を流した。

真奈美は、いつの間にか人間的になり過ぎた。人間的になり過ぎて、一族よりも純を、そして子供を、愛しすぎてしまった。

 そしてある日、遂に真奈美は、純の墓の前で薬を飲み、自らの命を絶った。

その美しい姿は、何一つ傷ついておらず、魂だけが抜き去られていた。

ある者は、その日に天に昇る光を見たと言い、またある者は天に架かる虹を見たと言う。しかしそれが、純と初めて結ばれた記念すべき日だと気付くものはいなかった。

それは、真奈美が天にいる純と結ばれる事を祈ったからだ、と思うのは、私だけでしょうか?

とにかく、これ程素晴らしい一族に属し、しかも、何でも満たされるのに、まるで原始的な個人主義者の様に、自ら悩み、苦しみ、自らの解決法を見付けられずに追い詰められ、その命を絶った真奈美は、アル達をはじめ一族の皆を驚かせた。

そして真奈美の残した素朴な遺書は、その死と共に一族の反響を呼んだ。

―私は、純のいるあの世に行きます。私は、純の様に確信なんて出来ないけれど、出来る限り信じます。純は、「信じるだけでは会えない」と言っていたけど、私には一生懸命信じる事しか出来ません。でも後悔はしません。愛する人と、愛する子を失ったのでは、どんなに満たされていても、それは寂しく、苦しい人生を生かされる拷問だから…。」

真奈美が、あの世へ行って純に会えたかどうかは、不可逆的な世界だからこの世の誰にも分らなかった。しかし、真奈美と純が会えたかどうかは、美しい童話として、その一族の間に永遠に語り継がれていった。

おしまいだよん。

>天界ワールドに戻る >天界通信に戻る